「鎌倉殿の13人」とか「十三人の刺客」、「13日の金曜日」、「ゴルゴ13」、「13歳のハローワーク」、そして大阪の十三に伊丹十三。13はかくも身近な数字である。再来年の大河の13人のうち、梶原景時を中村獅童さんが、和田義盛を横田栄司さんが演じることになっている。
景時と義盛は有力御家人だったが、それゆえに北条氏と対立して滅ぼされている。しかも共通しているのは、滅ぼされる前に美作国の守護職を務めていたことだ。本日は美作守護職の居館跡を訪ねてのレポートである。
津山市神戸(じんご)に国指定史跡の「院庄(いんのしょう)館跡」がある。もと後鳥羽院の荘園だったことから院庄というらしい。
地図を見れば分かるように、居館跡らしい方形が残っており、土塁を巡らしていたことも見てとれる。このブログでは以前に東国の中世武家屋敷跡を紹介したことがあるが、やはり方形の遺構がよく残っている。地元教育委員会による説明板が二種類あるので読んでみよう。
史跡 院庄館跡 国指定史跡(大正十一年三月八日指定)
院庄館跡は、鎌倉時代から室町時代にかけての美作守護職の居館跡と推定される遺跡です。
ここはまた『太平記』に登場する後醍醐天皇と児島高徳の伝承の地としても有名であり、明治二年には館跡の中央部に作楽(さくら)神社が創建されました。
大正時代の館跡周辺の切絵図には「御館」「御館掘り」「掘り」等の地名が見られ、当初の館の区域は現在の史跡指定地よりさらに大規模なものであったと推定されます。
また「方八十間」といわれた広大な館跡からは、昭和四十八年から四十九年と五十五年から五十六年に行われた発掘調査によって、井戸跡、建物の柱穴等が検出されました。
現在、館跡の東・西・北の三方には、幸いにも延長約五百メートルにわたる土塁が残っており、往時をしのばせています。
津山市教育委員会史跡院庄館跡
院庄館跡は、鎌倉~室町時代にかけての美作守護所と推定される遺跡である。
裏付ける史料としては、『作陽誌』『院庄作楽香(いんのしょうさくらのかおり)』があげられる。『作陽誌』に「慶長癸卯(8年)以前苫西郡院庄州府たり」との記事が見られ、『院庄作楽香』にも「文治後、総社に在し国府自ら廃り鎌倉覇府の派遣せし守護職は、大率(おおむね)此地に居りて州府と称せり」の記事がある。
2度にわたる発掘調査の結果、現在残っている土塁は往時の土塁を踏襲したもので、館の構築よりもやや遅れて築かれた。土塁内部には、井戸、堀立柱建物が存在した。青磁、白磁、墨書磁器、備前焼、勝間田焼など、遺物も多量に出土した。
このことから、守護所を中心とした建物群は、土塁の内部にあることがわかった。
現在、館跡の中央部には、後醍醐天皇を正祀とし、児島高徳を配祀とした作楽神社が位置している。
津山市教育委員会 贈津山さくらライオンズクラブ5周年記念 1988
守護所だったことが分かるが、ここには守護の名が一切出てこない。梶原景時や和田義盛がここ美作に赴任したとは思えない。その後は北条氏の得宗家や一門が守護職を務めたようだ。隠岐への要路である美作は、北条氏が戦略的に直轄していたのだろう。遺構のうち井戸跡の説明板を読んでみよう。
井戸跡
昭和四十九年の発掘調査で、現地表下五〇センチメートルの所から発見されました。上面は径六○センチメートルの円形で、河原石により組まれています。下部は、厚さニセンチメートルの針葉樹の板材を組み合わせた方形の枠組みになっています。
井戸内からは、勝間田焼甕片、土鍋片などの陶器類他に、墨書木片、箸状木製品なども出土しました。これらの出土遺物から、井戸の時期は鎌倉時代に属するものと考えられています。
平成二十年三月 津山市教育委員会
勝間田焼とは須恵器の流れをくむ青灰色の焼き物である。墨書木片はここで地方行政が行われていた証拠となるのだろうか。ここが中世美作国の中枢だったことは確かだ。「鎌倉殿の13人」に院庄が直接関係するわけではないが、この館跡が鎌倉時代のイメージの一つとして再評価されることを期待したい。
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