コロナ禍で歌うことさえ憚られるようになった。合唱さえ自粛しているのだから、寮歌を肩組んで放吟するなどもってのほかである。とはいえ、今どき寮歌が歌われているのだろうか。ひと昔前の印象はあるが、「栄冠は君に輝く」のような応援歌だから、今聴いても元気が出るだろう。連続テレビ小説「エール」古関裕而さんの世界だ。
神戸市神戸の作楽神社に「寮歌碑」がある。
東京で寮生活を半年ほどしたことがある。寮歌を歌ったこともないし聞いたこともない。寮生ではなくビジターだったので知らないだけだろうか。朝食だけは学生諸君とともにいただき、さわやかな挨拶に日本の未来を明るく感じたものだ。今頃は彼らもそれぞれの部署でミドルリーダーと期待されていることだろう。
作楽神社の石碑には次のような寮歌が刻まれている。
寮歌よ永遠なれ
大正二年六高南寮寮歌 出隆作詞
野辺の小川に花咲かば 若き血潮を誇らなん
鈍色(にびいろ)の雲ながめては 眉に憂愁(うれい)を包むべし
さはれ吾等がかんばせに 輝く高き灯を見ずや
大正二年三高行春哀歌 矢野峰人作詞
静かに来たれなつかしき 友ようれひの手をとらん
くもりてひかる汝(な)が瞳(まみ)に 消えゆく若き日はなげく
六高は現在の岡山大学の源流の一つで、県立朝日高校の場所にあった。いくつか寮歌があるようだが、このうち南寮の歌がこれである。マントに高下駄の学生が彼方を見遣る像が岡山駅前にあり、歌詞の世界を体現している。さはれ吾等がかんばせに…など古文の世界でよく分からないものの、おそらくは「先行き不透明な世の中に、若いオレたちは心を痛めてる。だがなオレらの顔は希望の灯で明るいぜ」みたいな意味だろう。
三高は現在の京都大学の源流の一つである。明治半ばに岡山に医学部を置いたが、大正時代には分離していた。三高の寮歌と言えば「琵琶湖周航の歌」が有名で、今も歌い継がれる名曲に昇華している。
六高と三高の寮歌碑がなぜ津山の地にあるのか。説明板を読んでみよう。
出隆(いで・たかし)
旧姓渡部。津山上之町に生まれ、田町の出氏を嗣ぐ。旧制津山中学校第十期 (明治42卒)。六高を経て東大哲学科卒。哲学者、東大教授。その著『哲学以前』は、旧制高校生の必読三書のひとつとされた。
矢野峰人(やの・ほうじん)
本名 禾積(かづみ)。旧久米郡久米町の生まれ。旧制津山中学校第十三期(明治45卒)。三高を経て京大英文科卒。詩人・英文学者。台北帝大教授・東京都立大学総長などを歴任した。現津山高校の校歌は峰人の作詞である。
作詞者である出隆と矢野峰人は、ともに現在の津山市域の出身である。特に出隆『哲学以前』は「旧制高校生の必読三書」として愛読された一冊だったという。その三書を検索すれば、西田幾多郎『善の研究』、倉田百三『愛と認識との出発』、阿部次郎『三太郎の日記』がヒットする。おそらく諸説あるのだろう。
手元の新潮文庫版『哲学以前』を開いてみよう。冒頭部から「しかし何から始むべきか。何が初めであるか。初めは何であるか。」といきなり哲学的考察で、ちょっとついていけない。それでも辛抱強くページをめくると、終わりになって次のような一節が見つかった。
しからば良心とはどんなものかというに、それはわれわれにおいて何かのまことを求めている内的欲求であり、われわれに対して「まこと(忠実)なれ!」「まこと(真実)を求めよ!」と叫ぶわれわれ内部の命令であり、或いは何かを真とし善とし美とし聖として(すなわち「まこと」として)規範し、また何かに「まこと」という価値を与へる活動である。
「まことを求めている内的欲求」これこそが人の行動原理であろう。大正時代には中学校(旧制)の生徒でさえストライキを起こしたというのだから、真理を求める欲求は今よりよほど強かったに違いない。
ところがどうだ。桜を見る会問題にしろモリカケ疑惑にしろ、マスコミは本気で解明しようとしているのか。大正デモクラシーによる真理の追究を、百年を経た今日、令和デモクラシーとして甦らそうではないか。
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