長生きはしたいが、こんな狂歌がある。
百居ても同じ浮世に同じ花月はまんまる雪はしろたへ(永田貞柳)
なるほど、100年生きたところで世の中どこが変わるというのか。四月になれば桜が咲き、十五夜には満月、寒波が来れば雪が降る。人が享楽を求めるのだって、いつの時代も変わらない。
このブログで800歳生きたという「八百比丘尼」を紹介したことがある。いったいどのような思いで暮らしていたのだろうか。『旧約聖書』にはもっとすごい人物がいて、969歳まで生きたメトシェラである。ノアの箱舟のノアのおじいさんなのだという。
本日は、この二人には遠く及ばないが、我々も遠く及ばない長寿の人物を紹介しよう。
鳥取市国府町宮下の宇倍(うべ)神社境内に「亀金岡 武内宿禰終焉之地」と刻まれた碑があり、小さな丘がある。
どこか神々しい雰囲気のある杜だ。階段があるので上がってみよう。
亀金岡の上に「双履石(そうりせき)」がある。履物のように並んだ石は草履ではなく双履、二つの履物である。説明板を読んでみよう。
双履石
御祭神「武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)」は第一二代景行天皇から仁徳天皇までの五朝にお任えされ、大臣の祖として日本の国づくりにご活躍の後、仁徳天皇五十五年春三月、この亀金の岡に双履(そうり)を遺し約三百六十余歳にてお隠れになりました。その石を双履石と称し命御昇天の霊石として今に伝わる当社の原点です。
宇倍神社のご祭神は、5代のリーダーを補佐した辣腕のナンバー2、武内宿禰である。官房長官が優れていれば政権が長続きするお手本のように思える。最長アベ政権の名補佐は、手腕を買われて今やトップリーダーである。我が国が命運を託す自称ガースーこと菅首相だ。ここのところ支持率が続落し「短命では」ともささやかれている。早く武内宿禰を拝んだほうがよいのではないか。
この武内宿禰は大変な長命で、三百六十余歳だったと記録されている。この地は宿禰の「終焉之地」とはいえ、お墓ではない。その最期は履物を残して消えたというから、まさに神様だったとしか考えられない。
双履石の伝承は何が典拠になっているのだろうか。階段脇に漢字ばかりの顕彰碑が建てられている。碑文を再現することとしよう。
雙履迹
従三位勲三等侯爵池田仲博篆額
国幣中社宇倍神社延喜式所載名神大社其神実為武内宿禰命
威霊顕赫四方之所崇敬也社後有阜隆然而高曰亀金又称雙履
跡相伝神之所遺雙履也灌水叢生荒残不理地方有志者恐其堙
滅無聞欲建碑以表之以文属予謹按命歴事六朝為世之元老国
之棟梁而古史簡疎事蹟不詳人皆憾焉神名帳頭注引因幡風土
記曰浪速高津宮治天下天皇五十五年春三月命年三百六十余
下因幡遺雙履於亀金不知所徃神名帳考証亦同其事与土人伝
説相符是豈為其遺蹟耶意命奉勅来吾州布政宣化有大功於此
土而国史逸之猶幸有口碑以伝其事耶旧誌曰祠之建在大化四
年益経数百歳之久而国民不諼旧徳相共立祠而神事之後遂列
官社耶命之祠在各地而此社最顕是豈無因而然哉夫人之於名
賢大徳残簡遺物猶且宝之况於斯命之遺蹟哉夫崇祀神祇国体
之所重尊賢報本民徳乃帰厚宜哉今有此挙也文彦豈不喜而賛
之哉若夫大勲偉績光於古今格於天地者則国史在焉爰不復記
大正六年十月
鳥取 湯本文彦謹撰
東都 河村正憲敬書
篆額の池田仲博侯爵は徳川慶喜の子であり旧鳥取藩主家の当主、仁風閣を建てたことでも知られる。撰文の湯本文彦は鳥取藩出身の歴史家で教育者。漢文の素養なくして読解不可能だが、少しずつ文字を追って意訳してみよう。
国幣中社の宇倍神社は延喜式所載の名神(みょうじん)大社であり、お祀りしている神は武内宿禰である。神威を四方にさかんに顕し崇敬されている。社殿の後ろに高く隆起した場所があり、これを「亀金(かめがね)」という。またここは二つの履物の跡、「雙履跡(そうりせき)」とも呼ばれる。タケノウチスクネノミコトが履物を残した跡だと伝えられているが、風雨に晒され草が生い茂り、荒れ果てていた。これは間違っていると感じた地元有志が跡形もなくなってしまうことを恐れ、由来を示す碑を建てようとして撰文の依頼があった。私は社会や国の指導者の参考になればと、ミコトが6代の帝にお仕えした歴史を調べた。古い書物の叙述は少ししかなく詳しい事蹟が分からないので、人は物足りなく思っていることだろう。『延喜式神名帳頭註』に引用されている「因幡国風土記」によれば、難波の高津宮におわしました仁徳天皇の55年3月に、ミコトは360歳余りで因幡に下向し、亀金に二つの履物を残して行方が知れなくなった。伴信友『神名帳考証』にも同様な記載がある。そのことは土地に伝わる説話とも符合する。ここはなんとその遺蹟なのだ。思うにミコトは勅を奉じて因幡に来訪し、まつりごとを行って民を教化した。この地域における功績は大きいといえよう。そして国の史書からは失われたが、幸いなことに口碑がそのことを伝えている。古い書物によれば、宇倍神社は大化四年に創建され数百年の久しきを経ている。しかしながら人々はミコトの徳を忘れず、ともに祠を守ってきた。維新の後にはついに官社に列したのである。ミコトの祠は各地にあるが、この神社がもっとも確かだ。これがどうして故なしとできようか。そのとおりだ。そもそも賢く徳のある人物の残簡や遺物は宝物として大切にされる。このミコトの遺跡ならなおさらであろう。そもそも神々を崇拝し、優れた先人を重んじ祖先に感謝するという人々の徳が厚い国がらである。いま遺跡を顕彰する動きがあるのも、もっともなことだ。私はどうして喜ばずにいられようか。賛同せずにいられようか。そもそも大きな勲功や偉大な功績が古今に輝き天地に極まるのは、すなわち国史に見られることだ。どうしてここに再録する必要があろうか。
吉田兼倶『延喜式神名帳頭註』に記されている因幡国風土記逸文が典拠だという。説明板が五朝で碑文は六朝と異なるのは、神功皇后を数えるか否かの違いだ。
国内外の危機を何代もの長きにわたって乗り越えた武内宿禰の手腕は、我が国随一といって過言ではないだろう。双履石を残して昇天し天上界におわすならば、いま再び降臨しガースーあるいはスガーリンに代わって令和の御代を支えていただきたい。
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