勧善懲悪は庶民の夢だ。真面目に働いてりゃ、いつかいいことあるだろう。ここ掘れワンワンがやってきてご褒美をくださるに違いない。そう思っている。
反対に、悪い奴らには何らかの報いがあってほしい。特に政治家やその取り巻きが都合が悪くなると発する「記憶にない」という言葉。誰もがウソでしょと思っても誰も証明できないから、ウソを言ってることにはならない。
しかしそれは「正直」とはまったく違う。正直じいさんに栄光あれ!
鳥取県岩美郡岩美町馬場に「田村虎蔵先生之生地」がある。ここには先生の生家があった。敷地の奥に「唱歌の父田村虎蔵先生記念碑」があり、東京芸術大学の平山郁夫学長の揮毫である。
田村虎蔵先生については「金太郎は歌い継がれる」という記事で東京の旧居跡と顕彰碑を紹介したことがある。その当時は偶然見つけただけだったが、このたび生誕の地と終焉の地がブログの中でつながり、ささやかながら顕彰のお手伝いができたことを喜びたい。碑文を読んでみよう。
田村先生碑文
田村虎蔵先生は明治六年五月二十四日、重蔵、志ま夫妻の三男(六人兄姉の末っ子)としてここ岩美町馬場に生を受ける。十二歳で蒲生小学校を卒業後一旦は家業の農業に従事するも、勉学への思いを断ち切れず鳥取県高等科小学校、鳥取県尋常師範学校へと進む。二十歳の時、因幡高等小学校で教職に就くが、東京音楽学校校長に就任した村岡範為馳氏の講演を聴くや直ちに上京して同校に入学、教育音楽家としての第一歩を踏みだす。
二十七歳で高等師範学校訓導兼東京音楽学校助教授に就任すると、子供たちが歌詞の意味を理解しながら歌える「言文一致唱歌」の普及に邁進、明治三十三年から立て続けに発行した「幼年唱歌初編」「幼年唱歌」「小学唱歌」で、♪まさかりかついだ金太郎の「金太郎」、♪大きなふくろを肩にかけの「大黒様」「花咲爺」「一寸法師」など日本人の心に残る傑作を次々に発表した。
また、児童発声法の改善を促す段階的指導理論をはじめ、音楽教育における鑑賞、器楽演奏の重要性を全国で講演するなど世界に通用する音楽教育の確立に終生奔走し、多くの後継者を音楽界及音楽教育界に送り出している。
田村先生が唱歌に託したふるさとへの思いと教育にかけた情熱を、地域の将来を担う子供たちの 情操を育む生きた教材として次代に語り継ぐ事を誓い、生誕の地に「唱歌の父」の碑を刻む。
平成十六年十一月七日 田村虎蔵顕彰記念事業委員会
先生に強い影響を与えた村岡範為馳(はんいち)も鳥取の人。専門は物理学でX線や魔鏡の研究で知られており、音楽分野では音響学で業績がある。東京音楽学校は今の東京芸大音楽学部につながる名門である。
先生は実地での経験に基づき、教育効果の高い教授法を紹介した。我が国の音楽教育の基礎は先生によって築かれたといって過言ではないだろう。記念碑には代表作「花咲爺」の出だしが刻まれており、思わず口ずさんでしまうくらいに、今も歌い継がれている。
ちなみに文部省唱歌にも「花咲爺」があり、「しやうじきぢぢいがはひまけば」と始まる。先生は著書『尋常小学唱歌教授書第一学年』で、次のように批判している。
語句に「ぢぢい」という下品な言葉があり、結構は余りに簡明かつ抽象的で、児童には不適当の歌である。
なかなか手厳しいが、その後の歴史は先生作曲の「花咲爺」を選択したのだから、批判は当たっていたといえるだろう。
正直にさえ生きていれば道は開けると信じてこれまで生きてきたが、コロナウイルスだけは正直と意地悪とを区別しない。連日「過去最多」と報道されている昨今、愚直に感染症予防に努めるしかないようだ。
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