「尼ぜ、我をばいづちへ具してゆかんとするぞ。」
「君は未知(いまだしろ)し召れさぶらはずや。先世の十善戒行の御力に依て、今万乗の主と生(うまれ)させ給へども、悪縁に引かれて、御運既に尽させ給ひぬ。先づ東に向はせ給ひて、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西方浄土の来迎に預らむと思食し、西に向はせ給ひて御念仏候ふべし。此国は粟散辺地(ぞくさんへんち)とて、心憂き境にてさぶらへば、極楽浄土とてめでたき処へ具し参せさぶらふぞ。」
(合掌)
「浪のしたにも、都のさぶらふぞ。」
『平家物語』屈指の名場面、巻第十一「先帝身投」である。幼帝が呼び掛けた尼こそ、平清盛が正室「二位の尼」であった。身を投げた壇ノ浦から遠く離れた因幡の地に、二位の尼ゆかりの古墳があるという。源平と古墳とは時代が異なるように思えるが、どういうことだろうか。
鳥取市国府町新井(にい)に市指定史跡「石舟(いしぶね)古墳」がある。新井二号墳ともいう。
石室の入口は狭く、中は真っ暗で何がなんやら分からない。カメラを持つ手を伸ばしてシャッターを切ると、二番目の写真のように美しい石棺が写っていた。説明板には次のように記されている。
この古墳は新井集落の向山の墓地にあり、直径10mの円墳と推定され、横穴式石室の玄室に凝灰岩をくり貫いた家形石棺が安置されています。
石棺は蓋と身からなっており、蓋石は2枚ありましたが、現在は1枚だけが身にのせられており、上の方が扁平な屋根型に加工され、横には方形の把手(とって)が造られています。大きさは厚さが約24cm、一辺1・14、身の方は縦1・9m、横1・1m、深さ55cmを測ります。
6世紀終わりごろから7世紀前半ごろの古墳と推定されており、昭和58年に国府町の史跡に指定されています。
また、平家伝承に関連させ、平清盛の妻、「二位の尼」の墓だという伝承もこの古墳にはあります。
国府町教育委員会
六、七世紀の古墳がなぜ十二世紀末の平家伝承に結び付くのか。おそらくは地名が新井(にい)だから二位(にい)の尼を連想したのだろう。その前提には因幡地方に安徳天皇生存伝説が流布していたことが挙げられる。安徳天皇の御陵墓と二位の尼の墓はセットなのだ。
別系統の伝説である「安徳天皇御陵墓(伯耆中津編)」では、安徳陵と二位の尼墓所はすぐ近くにある。壇ノ浦で母と離れ離れになった幼児を誰が保護するというのか。因幡であれ伯耆であれ、幼帝が生き延びていたとするなら、二位の尼を死んだことにはできない。
栄耀栄華を誇った平清盛の正室である。その墓が豪華であって何の問題があろうか。ふつう木製である棺桶が石製で、ちょっとおしゃれな蓋もセットだ。従二位の高貴なお方である。落ち延びているとはいえ、落ちぶれたことにはできない。因幡の人々の優しさが家形石棺と二位の尼を結び付けたのであろう。
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