民主主義は共産主義のようなユートピアのイデオロギーに過ぎないのか、それとも普遍的な価値なのか。冷戦が崩壊しフランシス・フクヤマ『歴史の終わり』が話題となった頃は、自由でリベラルな民主主義は、これ以上変化しようのない到達点かのように思われた。
しかし、民主主義は意外に脆い。民族や宗教、そしてエゴといった極めて人間的なものに対しては、説得力を失うのである。トランプ氏の熱狂的な支持者と、熟議によって合意することができるのだろうか。現代の分断状況はそういうことだ。
分断しているとはいえ、双方が先鋭化して武器を取って衝突するわけでもない。多くの人々は妥協することによって、トラブルを回避している。自分の身や心の安寧を犠牲にしてまで、民主主義を守ろうとしないのが現実だ。この「民主主義」を「法華経」に置き換えたらどうだろうか。
法華経は普遍的な価値なのか。信じる人には絶対かもしれないが、数ある経典の一つと考える人もいる。日蓮聖人もルターもピューリタンも宗教改革者は原点回帰を志向し、法華経に帰れ、聖書に帰れと主張する。しかし現実社会では、布教にさまざまな障壁があり、妥協を余儀なくされるものだ。それを多様性の尊重と表現すれば美しいが、それでは信仰を守ったことにならないと考える人もいる。
ファンダメンタリズムは宗教を考える上で重要な要素なのだ。本日は法華信仰の純粋性を貫こうとして弾圧された宗派の話をしよう。
岡山市北区建部町福渡に「日船上人(にっせんしょうにん)の墓」がある。
古い写真を見ると左奥の古い墓碑だけ写っている。整備されてほどない真新しい石材に、凛とした気品が感じられる。日船上人とはどのようなお方だったのだろうか。ここには説明板が二つあるので、どちらも紹介しておこう。
日船上人の墓
日蓮宗「不受不施派」は、その立宗の根本精神を守って譲らなかったため、その精神を相入れない政策をもつ徳川幕府によって布教を禁じられました。特に寛永の“法難”といわれる厳しい弾圧から明治の再興許可までのおよそ240年間は、内信といって、その宗義を信奉する人々によって、秘かに伝えられました。日船上人はこの不受不施派の高僧で、この地方に教えを伝え、明暦4年(1658)この地で亡くなりました。遺体は、信徒により山根の江田氏の土蔵で火葬にされたといわれます。
環境省・岡山県本壽院日舩聖人ご墓所
本壽院日舩聖人祖山歴代二十二世は、文禄二年(一五九三)美作国久米南条郡福渡村に生誕、京都妙覚寺に入山し、日奥聖人の薫陶を受け当代一流の不受僧となった。
日奥聖人を失った京都妙覚寺は幕府に接収され受不施寺となった。その為出寺した日舩聖人は、幕府の執拗な追跡にも拘わらず各地を転々と布教した。晩年には作州川口に帰り庵を結び、困難な時期の内信不受不施派の指導を続けた。
故郷の福渡化城院にて、明暦四年(一六五八)四月十二日六十六歳でご遷化。江田家の土蔵にて炭火により荼毘に臥され、この地に永眠される。
平成二十六年十一月吉日
日蓮宗不受不施派立正護法会建立
不受不施とは、法華経信者でない者から施しを受けず施しもしない、という考えである。日蓮聖人は折伏により人々を正しい信仰に導こうとされたが、正邪を明らかにするならば、当然他宗派は邪宗門となる。邪宗門との交流は妥協に他ならず、折伏の根拠を失うこととなるのだ。
時は文禄四年(1595)、秀吉は京都方広寺で千僧供養を執り行うべく、諸宗派とともに日蓮教団にも出仕を要請した。日重らの多数派は教団維持という現実的な観点から出仕を決めたが、日奥らの少数派は不受不施を貫いて出仕を拒否した。
そして寛永七年(1630)、受派の身延山久遠寺日暹(にっせん)と不受不施派の池上本門寺日樹が論争した身池対論で、幕府が裁定したのは受派の勝利であった。不受不施派の寺院は受派に与えられ、僧は流罪になるなど厳しい弾圧が加えられた。説明板のいう「寛永の法難」である。この時、京都妙覚寺にいた日船上人は大衆(だいしゅう)30余名とともに寺を去ったが、その後、明暦四年(1658)に亡くなるまで各地で信者を支え続けた。
以前の記事「江戸幕府、もう一つの宗教弾圧」では、千葉における不受不施派の信仰を紹介したことがある。信仰を曲げなかった人は各地で潜伏し、明治になって再興する。純潔、純粋、ピュアで清らかな人生を貫くのは並大抵のことではない。口では分かったことを言いながら、その言葉に恥じない生き方をしているだろうか。日船上人の墓に合掌すれば、そのように自問せざるを得ないのである。
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