関東を旅していると、頂部が山形をした板状の供養塔に出くわすことがある。それが印象深く感じるのは形が珍しいからだけではない。翠緑の石は自然の中にあって際立つ存在感を放つ。このブログでも「だけども問題は今日の雨、みのがない」で紹介したことがある。それは緑泥片岩という石材であった。
中国地方では板碑そのものを見かけることが少ない。本日は山陽本線の傍らに立つ貴重な板碑を紹介しよう。
備前市吉永町福満に「倉吉の板碑」がある
この地は山陽本線と並行して岡山県道・兵庫県道96号岡山赤穂線が通過している。この県道はかつては岡山県道1号として知られた東西交通の主要道である。古代や中世の山陽道もこのルートを通過していたようだ。
人の往来が多い場所に供養塔が建てられるのはありがちなこと。この板碑はいつ建てられたのだろうか。説明板を読んでみよう。
市指定文化財
倉吉の板碑
昭和六十二年三月二十六日指定
この板碑は高さ約一、三m、幅約三〇cmの花崗岩製で、頂部の山形は低く、左右へ緩やかに流れ、二条の切込みも目立たない。碑面には種子(しゅじ)三つと蓮華座が刻まれている。種子は上部中央が阿弥陀如来を表す「キリーク」、向って右下が勢至菩薩を表す「サク」、左下が観音菩薩を表す「サ」で、その下には蓮華座を配し、これらの阿弥陀三尊を受けている。
下方中央には「文永□□月□□」の銘が刻まれている。鎌倉時代の文永年中(一二六四~七五)に造立されたとみられ、県下に残る板碑の中ではかなり古いものである。誰が何のために造立したのかは明らかでないが、満願寺と深い関わりがあると思われる。
板碑とは石造供養塔の一種で、板石塔婆ともいう。鎌倉時代以後中世のものが多く、仏への信仰や死者への供養を目的に造られた。一般的な板碑は、頂部が山形で、その下に二条の切込みを作り、さらに下に梵字(種子)・仏像・銘文等が刻まれる。宝篋印塔や五輪塔とならび、中世を通じてもっとも普遍的なものとなった。
平成二十五年十二月 備前市教育委員会
この板碑は花崗岩製で、風化が進んだためか銘の判読はしにくい。説明板によれば「文永年中」の造立というから、蒙古襲来の頃だと分かる。対外関係の緊張に伴って、大宰府と鎌倉との往来も活発になったであろう。関東でよくみられる板碑が当時最重要の官道沿いに建てられたことは、こうした状況と関連があるのかないのか。
この板碑に深いかかわりがあるという満願寺は、「満願寺の旧跡」という石碑のほか何も残っていないが、一帯は市の史跡に指定されている。
ごく普通の村落にしか見えないものの、合併前の吉永町が発行した『吉永町の史跡あんない(第二版)』には、次のように記されている。
満願寺跡(大字福満字倉吉)
孝謙天皇(奈良時代)の勅願により、報恩大師の創建に係り七堂伽藍完備し、十三坊四辺にあり、山門は部落民家の辺にあった。
旧官道に面し寺領も多く一時盛大を極めたが、寛文の頃衰微し、池田光政の寺院整理の際廃寺となり、地蔵菩薩並びに四天王は南方の松本寺に移されたという。満願寺普賢院住職還俗し新庄姓を名のり、正八幡宮の神官となる。
附近の西蔵坊などの地名、蓮池・古池・噴(ふき)井などによって往時の盛大さを知ることができる。
この村落一帯が壮大な伽藍を誇る寺院だったのだろう。戦国の世で次第に衰微し、再建する大名もいないまま近世を迎えた。山陽道のルートが南方の片上港を通過するよう変化したことの影響もあったはずだ。そして備前の領主となった名君池田光政が仏教嫌いであったことが止めを刺したのである。
現在の私たちは毎日、祈るような気持ちでコロナ禍を過ごしている。ワクチン接種の順番はいつ頃になるのか。同じように中世の人々もさまざまな祈りを捧げていた。おそらく宗教への期待は、今とは比べ物にならないくらい大きかったことだろう。であれば七堂伽藍や十三坊の存在は、ずいぶん心強く思えたに違いない。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。