津山名物にはホルモンうどん、干し肉、そずり鍋など肉関連、桐襲、よこの餅、五大北天まんじゅうなどの和菓子が知られている。いずれも食通をうならせる逸品である。また、歴史好きで歴史を熱く語りたい方には、榕菴珈琲(ようあんコーヒー)なるものがおすすめだ。
なんと「珈琲」というおしゃれな表現は榕菴、蘭学者の宇田川榕菴が考えたのだという。この他、酸素、水素、窒素、炭素など基本的な元素名もそうなのだとか。さすがに酸素水や水素水なるアヤしげな水を考えはしなかったようだ。
津山市西寺町の泰安寺に「洋学者宇田川家三代墓所」がある。津山市には洋学資料館という全国的にも珍しい資料館があるが、これは津山藩の宇田川家、箕作家が偉大な学者を数多く輩出したことに由来する。
箕作家については以前の記事「洋学者のご先祖さま」で紹介したことがある。ただし有名な箕作元甫の墓は、津山にはない。いっぽう本日紹介の宇田川家墓所には、高校日本史にも登場する大先生も眠っておられる。ここには5基の墓碑が並んでいるが、いったいどなたのお墓なのだろう。写真正面の石碑に刻まれた文章を読んでみよう。
宇田川家は古くより今の東京都足立区小台の漢方医であったが、宝暦二年(一七五二)槐園(玄随)の父道紀が初めて津山藩医となり代々江戸鍛冶橋の藩邸に住んだ。
槐園は苦くして蘭方に転じ、我が国最初の西欧内科医書を翻訳刊行した。のち榛斎(玄真)、榕菴、興斎と家学を継ぎ、優れた洋学の家系として名声を高めた。
墓所はもと浅草誓願寺にあったが関東大震災の後多磨霊園に移され、この度後裔小森氏の意を受け、ここに移転した。榕菴の墓は二基あり一基には夫人も葬られている。
平成元年十月 宇田川家三代顕彰実行委員会宇田川興斎妻子の墓(左端)
興斎は文久三年(一八六三)国元へ転居を命ぜられ、津山で藩士阿部多亀之丞の伯母お梶を娶り一子轍四郎をもうけたが、虚弱の為生後七ヵ月にして死去した。続いてお梶も病死し、当寺内に埋葬された。この度三代の墓所をここに定めるに当り興斎妻子の墓も併せ移し、共に永くその霊を弔うものである。
説明文を整理すると、墓の主は手前の墓碑から、宇田川玄随、玄真、榕菴、榕菴夫妻、興斎妻子ということになろう。このうちもっとも高名なのは宇田川玄随だ。日本最初の西洋内科書『西説内科撰要』を刊行した。外科中心だった西洋医学の取扱範囲を内科にも広げた画期的な翻訳書であった。
次に有名なのは冒頭で紹介した榕菴先生であるが、最大の功績は「珈琲」ではなく、『舎密開宗(せいみかいそう)』という宗教のような名称の化学書を刊行したことだ。「舎密」は英語でchemistry(化学)にあたるオランダ語の音訳だそうだ。元素名はこの書に登場する。
宇田川家の人々が活躍したのは江戸であり、仕えた藩の国元が作州津山だったというにすぎない。だが、こうした縁があったからこそ、墓所の移転先として津山が選ばれたのである。「洋学のまち」津山としては大歓迎だろう。
近年はカタカナ語が氾濫しており、クラスターやソーシャルディスタンスはすっかり日本語として定着した。しかし小池都知事のように、オーバーシュートとかステイホームだとか、はたまたワイズ・スペンディングだとか、好き好んでカタカナ語を話す人もいる。知的に見せたい気持ちは分かるが、少々ついていけない。そう考えると、日本語の元素名を考案した榕菴先生の偉大さが改めて分かるような気がする。
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