縄文時代は東日本の人口密度が高かったという。縄文人の少ない西日本は、弥生人にとって都合のよい移住先だったのだろうか。うちの家族はすべて弥生系の顔つきなのだが、やはりそのころ移住してきたのだろうか。
弥生人がやってくるずいぶん以前、縄文時代早期中葉というから八千年くらい前のことだろうか。西日本にも縄文人が住んでいた。あの三内丸山遺跡よりもかなり前である。
岡山県苫田郡鏡野町瀬戸に「竹田(縄文)遺跡」がある。広域農道「作州街道」沿いの崖上にある。かつて丘陵は農道の南側の竹田地内にも延びており、遺跡は一部のみ保存されたらしい。
現代は治水が発達しているから川沿いの平地に多くの人が暮らしているが、縄文時代に安全安心な場所はこうした小高い丘の上だった。何が発掘されたのだろうか。説明板を読んでみよう。
町指定史蹟
竹田(縄文)遺跡
一九七三年、弥生遺跡発掘中に発見された縄文時代早期中葉の集落跡です。
検出された遺構は、住居跡六軒・杭穴多数・火を焚いた跡が一か所です。
住居跡は楕円形で、最大のものが長径四・三五メートルです。これは二重の杭穴列が楕円形にめぐり、内側と外側の杭穴が対になります。この楕円形の杭穴列の長軸中心線上に、柱穴が二つ配置され、簡単な上屋構造を支えたものと推定しています。いずれの住居跡内にも炉跡はありません。唯一発見された火を焚いた跡が、共同の炉跡と思われます。
出土遺物は、石鏃・掻器・敲石・磨石などの石器と押型文土器です。
押型文土器は二時期に分類され、黄島式土器の新相と高山寺式土器に併行するものです。
この集落跡は、五・六人からなる小家族集団が一定期間居住し、何回か建て替えされたものと推定されています。
この竹田縄文村には6軒の家があり、30人くらいが住んでいた。集落の北側に共同の炉があり、周辺で確保した食材で調理した。「ええ匂いじゃあ」とアツアツの料理を各家庭に持ち帰って食べるのであった。
東日本ほど豊かではなかったかもしれない。しかし、つましくも温かい暮らしがここにはあった。その頃、各人に彼我を区別するための名前はあったろうが、各家庭に姓があったのだろうか。6軒の家なら名前だけで十分だったかもしれない。
いま夫婦別姓が議論になっている。家族の一体感を壊すと騒ぐ人もいれば、個人の尊重につながると積極的な人もいる。姓の在り方に世界標準もなければ歴史上の普遍性もない。しょせん、自分の価値観を大切にしたいだけだろう。家族の一体感は姓ではなく、暮らしによって生まれるのだ。
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