今月3日午前10時半ごろ発生した熱海土石流はその衝撃的な映像がテレビで繰り返し流され、私たちが災害列島に住んでいることを目の当たりにさせられた。安否不明者は当初約20人と伝えられていたが、なかなか確定に至らなかった。それほど人の把握は難しい。
3年前に真備大水害のあった6日、毎日新聞の余録は谷崎潤一郎の名作「細雪」の一節を引用して、この時季の土石流に警鐘を鳴らした。本ブログ「名作『細雪』が伝える大水害」で紹介した阪神大水害である。
神戸市東灘区西岡本三丁目の野寄公園に「有備無患」と刻まれた石碑がある。昭和13年の大水害を伝える自然災害伝承碑である。
揮毫は海軍大将末次信正、ロンドン海軍軍縮条約に反対する艦隊派の軍人として知られる。第一次近衛内閣では内務大臣をつとめた。当時、河川や砂防に関することは内務省の管轄だった。末次内相が備えあれば患いなしと述懐した大水害とは、どのようなものだったのか。副碑の碑文は漢文だが、説明板に現代語訳が記載されている。読んでみよう。
時に昭和十三年戊寅の年、晩春より長雨が降り続き、七月五日になって、未だかつてない豪雨が襲ってきた。六甲の山々は山津波を起こし、山腹はまるで滝のように崩壊し、それぞれの河川は一斉に氾濫した。濁流は滔々として流れ、崩れ落ちた巨岩も累々と重なり、土砂や木とともに荒れ狂い、ゴウゴウとどよめいた。たちまちのうちにあたりは荒野と姿を変えてしまった。
痛ましいことに、死者は十一名、傷ついた者はどれほどか分からない。加えて、流失・全半壊の家屋は七百棟あまり、埋没・浸水したものは、実に壹千五百棟あまりであった。
ああ、その凄惨なありさまは表現することができない。この報道が天子の御耳に達し、畏れ多くも侍従を派遣なされ、その上、御下賜金まで賜わった。天子の恩愛はことに優れたものであった。この恩情に対して、感激の涙にむせぶしかなかった。
考えてみるに、自然の威力は強大なものである。今回の洪水については、我々としてはただ禍を転じて福とする方法を考える以外にはない。そこで村中の者が心を一つにして、復興に努力し、賢明に努めて怠ることなく、一年あまりでようやく復興事業も完成した。
人間の力もまた軽んずることはできないものである。
ここにこの碑を建て、後世への手本の記念とするものである。
昭和十六年辛己春
本山村長 松田七右衛門
阪神大水害は死者・行方不明者695人、被災家屋15万戸という未曽有の大水害で、『細雪』だけでなく妹尾河童『少年H』や手塚治虫『アドルフに告ぐ』でも描かれているそうだ。碑文の現代語訳を読んで、天子云々以外に時代のギャップによる違和感を感じるだろうか。
これは過去の話ではなく現在の課題である。災害は繰り返し発生し、忘れた頃にやって来るのである。近年、自然災害伝承碑が注目されるようになり、平成31年には地図記号まで制定された。滅多に起きない大災害ではなく、いつ起きてもおかしくない大災害であった。末次大将のおっしゃるとおり、備えあれば患いなしである。
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