悪七兵衛景清については、「日の立つ国の光明というイメージ」など、このブログで何度か各地の伝説を紹介した。『平家物語』から始まって、幸若舞、古浄瑠璃、義太夫節、歌舞伎という各種芸能で扱われることにより、英雄化、伝説化が進展したのであろう。しかし、本日紹介する景清は源平合戦ではなく、南北朝時代の武将だという。たまたま同じ名前だったのか。
岡山県苫田郡鏡野町古川の景清山宝性寺往生院の境内に「景清堂」があり、手前に「藤原景清終焉之地」と刻まれた石碑が建つ。
堂の奥には新しい墓石が三基あり、真ん中が景清、右は景清の母、左は景清母子の供養のためにお堂を立てた一族の景明である。近くに説明板があるので読んでみよう。
筑後守藤原景清
南北朝時代の武将である。「景清山宝性寺縁起」によると、因幡の住人、筑後守藤原景清は名将の誉れ高く、数々の合戦で軍功があった。これにより、足利将軍義詮公より恩賞として香々美の庄方一里余町を扶助され、当山に居館を構えることとなった。その後、武運は益々強く勢いは盛んであったが、当国江見・村上両氏の妬みを買い、貞治六年(一三六七)秋、村上氏の計略にかかり、二丁ばかり北の因幡殿という所で無念の最期を遂げた。これを知った景清の母は悲嘆のあまり、この山の麓の香々美川の渕で入水した。その場所を往生渕という。
悪七兵衛景清ならば娘との対面となるのだが、ここでは景清の討死と悲嘆した母の入水である。両者はまったく関係がないように思える。景清が無念の最期を遂げたという「二丁ばかり北の因幡殿という所」に行ってみよう。寺を出て旧国道を北に進むとそれらしい場所が見つかった。
同じ古川地内に町指定史跡の「藤原景清終焉の地」がある。
景清堂前の石碑は以前このあたりにあり、昭和初期には土盛の塚があったという。小字は「因幡殿」だそうだ。因幡の住人、藤原景清が非業の死を遂げたのは、確かにここなのだ。これが宝性寺の縁起であり、史跡の公式な説明でもある。
ところが興味深いことに、因幡殿で討死したのは藤原筑後守ではなく坂手因幡守だ、という言い伝えもあるようだ。ただし坂手因幡守は因幡出身ではなく地元の武士である。このことは鏡野町教育委員会『鏡野風土記』で紹介され、「広報かがみの」2016年3~6月号でも考察が加えられている。
要は実在していたのは坂手因幡守で、この人物に古典芸能の景清を擬したか、因幡出身の実在の景清という人物と混同したか、ということらしい。藤原景清の名はメジャーだが、語り伝えられたのはストレートな景清伝説ではなく、少々込み入った応用編であった。美作ならではのアレンジを見ることができよう。
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