改築前は土葺きの瓦屋根だった。今はスッキリ見えるガルバリウム鋼板にして断熱材を入れているが、もしかすると土葺きのほうが涼しいのかもしれない。近年、瓦の流通量は下落傾向にあるという。地震や台風の被害映像から災害に弱いというイメージが広がった。だが、素材そのものの耐久性は瓦が一番優れているそうだ。
岡山市東区瀬戸町万富に「万富東大寺瓦窯跡(まんとみとうだいじがようあと)」がある。国指定史跡である。
この史跡は再調査を経て整備され、観光や教育に活用する計画があると聞く。昭和五年三月に建てられた標柱には「史蹟名勝天然紀念物保存法ニ依リ昭和二年四月内務大臣指定」とあり、文化財保護行政の歴史を知ることもできる。昭和三年に所管は内務省から文部省へ移されるのだ。現在の文化財保護法ができるのは昭和二十五年である。説明板を読んでみよう。
治承四年(1180)、源平の戦いで焼失した東大寺は、備前国を再建の用途にあてるための造営料国として、俊乗坊重源を中心に再建された。万富地域は、焼物が盛んで良質の粘土が多くあり、吉井川の水運を利用した運搬に都合がよい地であったために、瓦製造窯が築かれたと考えられる。
万富産の軒瓦は、梵字を中心に「東大寺大仏殿」の銘文が配置され、平瓦には「東大寺」と陽刻されたものもある。これらの瓦は、東大寺大仏殿以外の建物にも使用されており、約30~40万枚の瓦が製造されたといわれている。
伝承によると、南都正八幡宮を勧請して社(現阿保田神社)を建て、瓦窯は、東・南・西にそれぞれ10基ずつ造られ、付近には多量の粘土を採掘したため池になったところもあるという。これまでの調査で、大寺山地区に14基の瓦窯が確認され、上の山地区にも瓦窯があった痕跡がみられます。また、礎石建物跡などが発見され、この付近一帯が大規模な官営瓦製造工場であったと考えられる。
平成22年3月
岡山市教育委員会
史跡にはそこに立地する理由がある。原材料と輸送、現代産業でも欠かすことのできない条件である。瓦を積み出した港(梅の津)が写真とは反対側の低地にあった。吉井川の水運が利用されたが、当時の川は現在より湾曲し、遺跡前からキリンビールの工場のあたりを流れていたらしい。
復興五輪という美しいスローガンが唱えられながら、デルタ株の猛威で火だるまになっている日本。復興はまだ先のこととなりそうだ。しかし、源平の争乱で焼け落ちた東大寺大仏殿を重源が再建したように、私たちは必ず日本を再建する。安倍政権誕生時の選挙スローガン「日本を、取り戻す。」を、反日派の排除ではなく、普通の暮らしができる日本を取り戻すための戦いに向けて、今こそ声高らかに唱えようではないか。
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