どちらかといえばマイナーなほうを好む傾向があるので、前方後方墳が好きだ。ある調査報告書によれば、美作地方に前方後方墳が8基あるという。(岡山県埋蔵文化財発掘調査報告30「久米三成4号墳」昭和54年)すべて列挙してみよう。
久米三成4号墳、楢原寺山古墳、岡高塚、美野高塚、西宮2号墳、植月寺山古墳、下原観音山古墳(下原31号)、諏訪神社裏古墳
別の調査報告書によれば、美作地方では前方後円墳が47基 、前方後方墳が9基の計56基が確認されているという。(津山市埋蔵文化財発掘調査報告第60集「日上天王山古墳」平成9年)前方後方墳をすべて列挙してみよう。
久米三成4号墳、諏訪神社裏古墳、植月寺山古墳、美野高塚古墳、美野中塚古墳、西ノ宮古墳、田井高塚古墳、岡高塚古墳、楢原寺山古墳
発掘調査で新発見があるから報告書の発行年により異同が生じるのだろう。新たな追加は美野中塚古墳、田井高塚古墳、消えているのは下原観音山古墳である。下原観音山古墳は現在、郷観音山古墳と呼ばれ前方後円墳とされている。
久米三成4号墳はこのブログのアーカイブ「台形+正方形=前方後方墳」でレポートした。諏訪神社裏古墳は「古墳時代の住居と明治時代の遊具」で触れたが、説明板には前方後円墳として示されていた。
「日上天王山古墳」の報告書で挙げた古墳のうち、植月寺山古墳(91.5m)、美野高塚古墳(67m)、美野中塚古墳(55m)、西ノ宮古墳(40m)、田井高塚古墳(40m)、岡高塚古墳(55m)の6基は勝央町にある。本日は勝央町最大にして美作最大の前方後方墳のレポートをお届けしよう。
岡山県勝田郡勝央町植月東に町指定史跡の「植月寺山古墳(観音寺古墳)」がある。
藪が刈り払われているから後方部の上までたどり着けたが、墳形が明瞭につかめない。とにかく大きいことは分かる。説明板でデータを確認しよう。
植月寺山古墳は、美野平野を南に一望できる丘陵の頂上に立地する前方後方墳である。古墳の規模は全長約90mを測り、後方部は北裾部で一辺が約36m、墳長平坦部の一辺が11mをはかり、高さは4.5mである。前方部は長さ47m、前方部推定幅35m、高さ1.5mを測る。後方部は前方部との比高3mと高く、また前方部はゆるく撥形に開く形状を呈する。内部主体については不明であり、明瞭な盗掘痕も認められない。
また外部施設については人頭大の葺石が認められる。現在までに出土遺物は無く、埴輪なども認められていない。これらの特徴から古墳時代前期の築造と考えられる。
本墳は、美作最大規模の古墳であり、美野平野周辺に位置する美野中塚古墳、美野高塚古墳などの前方後方墳とともにこの地域を治めた首長の墓と考えられ、美作を代表する重要な古墳の一つである。
平成15年3月 勝央町教育委員会
美作最大の前方後円墳はアーカイブ「前方後円墳の戦国リユース」で紹介した美和山一号墳である。こちらは全長83m、崇神天皇陵の行燈山古墳242mの3分の1モデルという見方がある。これに対する植月寺山古墳は全長90mで、箸墓古墳を全長272mとすれば、その3分の1モデルということらしい。本当にそうなのか、そう見えるだけなのか。
もし植月寺山古墳が箸墓古墳の系列であれば、美作地域における大和王権公認の大首長がいたわけだ。しかも、その墓は他の追随を許さない巨大前方後方墳である。その墳形を許されたのは、おそらく一族か近臣かごく身近な者だけだったろう。おかげで今、勝央町は地域最多6基の前方後方墳を誇る。美作最初の地方中枢拠点都市だったのかもしれない。
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