五輪については批判的か感動的か、いずれにしても感情に訴える記事ばかりが目についたが、歴史家の渡邊大門氏がヤフーニュースに面白い記事を書いていた。フェンシングに宮本武蔵が出場したなら金メダルが取れるという。その根拠は養子伊織の建てた「小倉碑文」。佐々木小次郎との決戦の場面に「武蔵、木刀の一撃を以て之を殺す。電光猶ほ遅きが如し」と記されている。LEDランプがピコーンと点灯するイメージにぴったりだ。
宮本武蔵の生誕地論争についてはアーカイブ「細川侯爵のお墨付き」で紹介した。そこで語られる武蔵の父(実際には養父か?)が仕えたのは新免氏という美作国人。本日は新免氏の城を訪ねたのでレポートする。
美作市古町に市指定史跡の「小原山王山(おばらさんのうさん)城跡」がある。石碑には「小原山王城趾」と刻まれている。
麓の大原神社(山王宮)からまっすぐに登って最初の曲輪である。石碑の裏に城の歴史が記されているので読んでみよう。
康安年中小原孫次郎入道信明入城。山名伊豆守に攻められ落城。応永二十三年竹内伊豆守久秀入城以下四代康正二年迄竹内氏在城。靍田城へ移る。康正二年宇野中務少輔家貞入城。家貞歿後新免伊賀守貞重明応二年迄在城。竹山城へ移る。
昭和五十一年十一月竹内久秀入場五百六十年記念
城主として4氏の名が挙げられている。このうち竹内氏の子孫の方によって碑は建てられた。『大原町史(地区史編)』によれば、康正二年(1456)に入城した宇野家貞は赤松方の武将で、縁戚の新免氏から養子を迎えた。これが新免伊賀守貞重である。石碑から先へ進むと、大きな堀切がある。
堀切を越えて進むと主郭があり、なんと対空監視哨を備えていた痕跡まで見ることができる。
『岡山県中世城館跡総合調査報告書(美作編)』によれば、かつての城は石碑のある曲輪だけで、主郭など堀切より北の曲輪は増築と見られるという。畝状竪堀などの技巧的な防御施設が見られることから、おそらくは上月合戦などの緊張感が高まった時期に拡張されたのではなかろうか。
美作市下町に市指定史跡の「竹山城跡」がある。
高所に位置するものの、車で登城できるのでアクセスは容易だが、達成感はないかもしれない。まずは説明板を読んでみよう。
竹山城は太平記にその名が出てくる中世後期の旧吉野郡第一の山城である。
城は東を大手とし、西を搦手とした。山の姿は北高南低、巽の方は竹林が繁茂しており竹山の名がついた。東から本丸と西の丸、その間に馬場、西の丸の西方に坊主が丸、本丸の東方に太鼓の丸がある。段郭は東方に二ケ所、馬場の北方に三段ある。堀切は坊主が丸の西に一ヶ所、井戸の跡は東北西の三ヶ所、門の跡は二ケ所である。戦国山城の立地条件は①天然の要害、②重要地点(因幡街道を見下ろす)、③攻擊の拠点、竹山城はこの三つの条件をみたした山城である。
大原町一帯は山陽側の赤松、山陰側の山名両氏の勢力争いが行なわれた土地である。新免伊賀守貞重は山陽勢力赤松、浦上、宇喜多と結び、明応二年(一四九三年)山王山城から移ってきて、 約二万石を支配したという。家臣を周辺の諸城要所に配置し、その後、宗貞、宗貫の三代百八年間、関が原敗戦まで在城した。武蔵の祖父平田将監、父平田無二斎はこの城の家老であり、剣道指範役としても仕えていた。
標高四三■メートルあるこの城跡は町内随一の展望台であり、眼下に宿場町の面影を残す家並と、南に武蔵生誕地宮本を望み、遠く東に美作富士と呼ばれている日名倉山、北東には岡山県最高峰後山が望まれる。
美作市
新免氏三代の居城にして、近隣にない巨城であった。いよいよ戦国の世となったことを察知した新免伊賀守貞重は、天然の要害にして見晴らしの利く地を選んで築城した。城から麓を眺めてみよう。
これはすごい。ドローンで撮影したかのような広い風景だ。智頭急行のスーパーはくとが上方と山陰を最速で結ぶことから分かるように、この地は交通の要衝であり、それ故に重要な防衛拠点であった。竹山城主新免氏に関しては、あの羽柴秀吉が次のような書状を残している。『岡山県中世城館跡総合調査報告書(美作編)』「下村文書」より
作州之内新免弾正左衛門、人質を召連罷出候間、居城させ此方一味候事
美作の新免弾正左衛門が、人質を連れ味方を申し出てきたので、その居城を安堵した。この書状は天正五年(1577)十二月五日付だから、上月城を巡る争いが激化していた頃だ。秀吉は要衝を押さえる新免氏に価値を見出していたのだろう。
秀吉に近付き宇喜多氏に仕えた新免氏だったが、関ヶ原以後は竹山城を離れ筑前黒田氏に仕えたという。ただし現在の美作市のあたりには新免さんがたくさんいらっしゃる。ご一族の歴史と繁栄に心より敬意を申し上げ、本記事はこのあたりで擱筆することとしたい。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。