公文書改竄を平気で行う現在の政府にはアーカイブの重要性が理解できないようだが、中国の覇者毛利氏はよく分かっていた。元就や吉川、小早川の出した文書は原本の保管、写しの作成など大切に管理され、「毛利家文書」や「閥閲録」として今日に伝えられている。本日紹介する山城は、毛利方の城であったことが幸いして古文書に何度も登場するため、その歴史を知ることができる。
岡山県苫田郡鏡野町山城に町指定史跡の「葛下城跡」がある。城の名は「くずか」とも「かずらさがり」「かずらのした」とも読む。写真は上が本丸跡、下は急斜面ながら階段状に連ねた細長い曲輪である。
美作有数の大規模な城で、曲輪は大小さまざま数えきれないくらいだ。米子方面から中国山地を抜け津山盆地へ出る道があるが、城はその出口に位置する要衝に築かれている。江戸時代には吉井川の水運で栄え、麓には「山家なれども湯指(ゆざす)は名所、津山通いの舟が着く」と謳われた船着場があった。
『岡山県中世城館跡総合調査報告書(美作編)』で紹介されている一次史料では、永禄十二年(1569)に毛利元就が葛下城に在番する原太郎左衛門尉を「祝着之至候」と褒めている。早くから毛利氏の影響下にあったようだ。
また、天正八年(1580)九月二十七日付の小早川隆景書状(福原家文書)には、次のように記されている。
自葛下桜井越中守被差越、兵粮玉薬之事被申越候、此両条肝要之儀候之条、追々本陣可被仰遣事専一候
葛下城より桜井越中守が使者として来た。兵糧弾薬が必要とのことだ。この件は重要なので、すぐに本陣に連絡するように。医王山城をはじめ美作各地で宇喜多氏との争いが激化していた。翌九年(81)には葛下城主中村頼宗が岩屋城の奪取に成功する。
ところが天正十年の備中高松城の戦い、翌年の中国国分けで美作の諸城は宇喜多の領分となる。「いや、俺たちは負けてねえ」と美作国人はしばらく抵抗したようだ。トップ同士の決定に、何も聞かされていない現場が怒る、という構図だろうか。
その後城が落去するに至って中村頼宗の家臣浅山図書が城に火をかけ自らも死を選んだ(『作陽誌』西作誌上巻苫西郡山川部薪郷)というし、野火によって焼失し廃城となった(『日本城郭体系』13)ともいう。
曲輪は草が刈りこまれ形状が分かるように整備されているが、決して気楽な登城路ではない。それだけ難攻不落の城であったということだろう。城跡と関連文書の保存がよいと後世から高い評価が得られるのだ。資料請求があったからといって桜を見る会の招待者名簿を慌ててシュレッダーするのは、疚しい気持ちから以外の何ものでもない。
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