SNSもメールも電話もなかった江戸時代に、人々はどのようにして連絡を取り合っていたのだろうか。事前に手紙を送っていたとしても、それぞれに都合や事情があるだろうし、うまく会うことができたのだろうか。本日はある紀行文を読むが、特段困ったことはなかったようだ。モバイルデバイスもなければないで何とかなるのだろう。
津山市小田中の聖徳寺の山門を入って左手に「西山宗因句碑」がある。
俳諧史に一時代を築いた談林派の巨匠、西山宗因。旅する俳人なら松尾芭蕉が思い浮かぶし、西行も宗祇も漂泊した。宗因もまた旅人であった。ここ作州津山で次のように詠んだ。
月見ればこよひなりけり旅の空
ずいぶん昔に私が茨城を旅して民宿に泊まった時、部屋の中に煌々とした月の光が射し込んできた。一面を白く照らす月を見ながら「いま茨城にいるんだよな」と、非日常的な光景のただ中にいることに感動を覚えたことがある。そういえば松山千春も「遠い旅の空から君に送る便りは…」と歌っていた。歌を示した石碑の裏には、次のような解説文が刻まれている。
後年、俳聖・芭蕉が「宗因は俳諧の道の中興なり」とたたえた談林派の鼻祖の宗因は、承応二年(一六五三)津山を訪れ旧友快映坊のいる聖徳寺に宿して俳諧史の貴重な文献「津山紀行」を残した。
句は寺で仲秋の名月を迎えほのかな旅愁を漂わせている。
書は彫無季氏
彫無季は彫書家。独特の味わいのある作品を残しているが、写真では石の字と文字の区別がつかないので残念だ。宗因に対する讃評は『去来抄』下巻「修行教」に掲載されている。原文は次の通りだ。先師とは芭蕉のこと。
然れども、先師常に曰。宗因なくんば、われ/\が俳諧、今以て貞徳の涎をねぶるべし。宗因は此の道の中興開山なり、といへり。
宗因はこのお寺にいる旧友で連歌仲間の法印快映に会いに来たようだ。承応二年七月二十七日のことである。富岡敬之編著『岡山紀行今昔』山陽新聞社に紹介される『美作俳諧略史』収録本には、次のように記されている。
廿七日。あかつきかけて行。月すこしきに、水落て石たかなる道に、馬上の夢も継がたし。心ざしの所は、津山といふ所なりけり。午刻ばかりにいたりつきぬ。あるじまちよろこび給て、さま/"\のいたつきに、此ほどの旅つかれも、故郷もわすれぬべし。打つけに発句所望あり。
思こしこやとし月の月の宿
又興行とて
秋の田のなびくは国のすがた哉
旧友のはらからなる人にあひて
色かよふ其一もとの小萩かな
予本国にて、むつまじうのたまひける人、いまはこの国人にていまそかりけるにあひて、そのかみいつかしかりをおもひでて、
見しやそれやどこそあらぬ宿の月
名月に
月みれば今宵なりけり旅の空
宿坊は寂証寺となんいひける。高野大師の遺教をたもち、上宮太子の尊容をまもりて、朝暮の勤行睡眠をおどろかす、結縁あさからずおぼえて
はるかなるひかりまちいでん暁を
おもひね覚の法の声かな
大本よそれもあさくや露の宿
この外も有しかど、くだ/\しく品なければもらしつ。
大坂から船出した宗因は備前片上で上陸し宿泊、翌二十六日に馬で山路を進み和気に出た。そこからは陸路か水路か分からないが吉井川畔の楢津(現在の赤磐市福田)に泊まった。鮎が美味いので三四尾も食べたそうだ。その翌日が上記の引用文である。
「寂証寺(寂静院)」は聖徳寺のこと。「高野大師」「上宮太子」とあるように、高野山真言宗で聖徳太子を本尊としている。宗因はこの寺に長く滞在して、8月15日の名月に「月見れば…」の句を詠んだのだろう。
寛永九年(1632)に熊本藩主加藤忠広は、幕府から改易を宣告され出羽庄内に流された。当時、宗因は家老で八代城代の加藤正方に仕えていた。津山藩主の森忠政は加藤清正と親しかったので、加藤家改易に同情して遺臣の一部を召し抱えていた。宗因は元同僚との再会も旅の目的としていたのだろう。
西山宗因、加藤清正、森忠政。そして、肥後八代と作州津山。一見、つながりそうにないものが見事につながっている。江戸時代のネットワークをあなどってはならない。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。