「青陵」という名称の学校はけっこうある。青春だとか丘陵だとか、どことなく爽やかなイメージと語感があるからだろう。ところが、申し訳ない。本日は同じ「青陵」なのだが、お墓の話をすることとしよう。
岡山市北区谷万成二丁目の青陵神社に「青陵古墳」がある。古墳らしい地形はほとんど判別できないが、板石を箱状に組み合わせた箱形石棺が置かれている。
もとは、古墳時代前期末から中期初めにかけて築かれた前方後円墳で、全長50mほどだったようだ。露出した石棺はこれはこれで趣があり、庭石のように見える。
もう一つ興味深いのは、温羅伝説の舞台にもなっていることだ。近くには温羅の首塚とも呼ばれた古い塚もある。ここにはどのような伝説があるのだろうか。説明板には次のように記されている。
青陵(あおはか)神社と温羅(うら)伝説
今から約一、七〇〇年前、吉備津彦命が、足守川の上流血吸川の流域で鬼ノ城を攻め落とし頭目温羅とその妻の首を持ち帰り、この谷万成の岡の辻と首部の坊主山に埋葬したと伝えられています。ところが夜半夜半坊主山から呻き声が聞こえ安眠出来ないため、それぞれの首を掘り返しこの地に石棺を造り鄭重に埋葬した。その夜から呻き声は直ちに消え、翌年からこの地方は万物の成長が著しく、来る年も来る年も豊年が続き、依ってこの地を万成と名づけた。
この谷万成の岡の辻の一帯はかって瓢箪山と呼ばれ前方後円墳であった。青陵神社は前方後円墳の前方部分にあったが寛文三年に火災にあい消滅し、翌四年現在の位置すなわち後円部分に再建したが、二七〇年の歳月風雨に晒され損傷が激しく、昭和十一年前のものより一・五倍拡大して建て直したのが現神社である。御神体は吉備津彦命の御舎弟硫王とみなされ、温羅夫婦は五穀豊穣の守護神として併祀されている。
青陵神社総代一同
首部に温羅の首を埋めたとすれば、ここ谷万成に埋葬されたのは妻の首ということか。そして、それぞれの首は掘り返され、この石棺に埋葬し直されたのだという。ならば、吉備津神社の御釜殿の下に埋められたという温羅の首は何なのか。
また、「吉備津彦命の御舎弟硫王」とは何者なのか。兄キビツヒコとともに吉備を平定した弟ワカタケヒコのことか。青陵神社の御祭神は「青陵神」とされるが、同一視してよいのか。謎は尽きないが、伝説の典拠となっている『岡山県御津郡誌』第三編人文誌第五章神社仏閣教会所第一節神社「青陵神社」の項には、次のように記されている。
伝へ曰ふ。神体は鬼面二頭にして裏面に青陵神殿の四字あり。社殿の後に古塚あり、吉備津彦命の西征の時、賀陽郡鬼城にて温羅の賊徒平定の時、鬼首二頭を此の万成岡の辻及び首部(今の平津村)に埋めらる。後人悪霊の災を恐れ此に社を建てたりと。
最近は「青春」をアオハルと読んで楽しんでいる。使用感のある「せいしゅん」よりも新鮮味が感じられる。では、青陵を「あおはか」と読むとどうだろう。鈍い色の石棺がコンクリートで封印されているのだ。これは決して「せいりょう」ではなく、「あおはか」がふさわしい。
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