「核共有」も含め、ディスカッションはすべてのテーマに開かれている。その上での主張だが、直接間接を問わず核兵器を持つことは威嚇のためだから、これは北朝鮮やロシアと同レベルの国策ではないか。歴史に学ぶことを誇りとする日本にふさわしいと思えない。2019年9月5日に「ウラジーミル、君と僕は同じ未来を見ている」と安倍首相は呼びかけた。いま僕らは、あの頃の未来に立っているのだ。
鳥取市佐治町刈地(かるち)の刈地農村公園に「地頭佐治四郎之墓」がある。
地頭といえば、文治元年(1185)に平家を滅ぼした源頼朝が守護とともに全国に設置した役職と承知している。受験では必須の歴史用語だが、史跡としてお目にかかることはなかなかない。四郎さんはどのような人物だったのか。
佐治村指定文化財
佐治四郎の遺跡(墳墓)
建暦三年(一二一三年)に鎌倉幕府より佐治郷地頭職を安堵された佐治但馬守四郎重貞は、本姓を尾張氏と言ったが、佐治郷の開発につとめ、この谷を切明けたところから佐治四郎と呼ばれた。佐治氏代々の居城跡と伝えられ、佐治郷開発領主「佐治四郎の墓所」とし小祠を建て切明大明神と称して祀り、近隣住民の信仰は厚かった。
因幡民談記に、「……太平記神南合戦ニ因幡士ノ内但馬守ト言フ者アリ、定メテ此ノ一家ノ内成ルベシ。昔ヨリ佐治一郷ノ主ト見エタリ」とあるところから、鎌倉時代より戦国末期に至る間、佐治氏がこの地を領していたものと思われる。
佐治四郎は、まず苅地(刈地)を開いて「一の小屋」をきずき、次に加勢木村(加瀬木)を開き、次々と奥部に進み、栃本(栃原)の里に至るまで開発したと伝えられている。
佐治但馬守四郎重貞は、建暦三年(1213)に佐治郷の地頭職に補任された。この年、大河『鎌倉殿の13人』で横田栄司演じる武闘派和田義盛が、北条義時と対立して反乱を起こすが鎮圧された。この和田合戦で重貞に功があり、恩賞として地頭に任じられたという。御恩奉公の典型的な事例である。
佐治氏はその後も活躍したようで、『太平記』巻第三十二「神南合戦事」には、次のような記述がある。
東西の牒使相図の日を定ければ、将軍は三万余騎の勢にて、二月四日東坂本に著給ふ。義詮朝臣は七千余騎にて、同日の早旦に、山崎の西神南の北なる峯に陣を取給ふ。右兵衛佐直冬も、始は大津松本の辺に馳向て、合戦を致さんと議せられけるが、山門三井寺の衆徒、皆将軍に志を通ずる由聞へければ、唯洛中にして、東西に敵を受て、見繕て合戦をすべしとて、一手は右兵衛佐直冬を大将にて、尾張修理大夫高経、子息兵部少輔、桃井播磨守直常、其勢都合六千余騎、東寺を攻の城に構て、七条より下九条まで家々小路々々に充満たり。一手は山名伊豆守時氏、子息右衛門佐師氏を大将にて、伊田、波多野、石原、足立、河村、久世、土屋、福依、野田、藤沢、浅沼、大庭、福間、宇多川、海老名和泉守、吉岡安芸守・小幡出羽守、楯又太郎、加地三郎、後藤壱岐四郎、倭久修理亮、長門山城守、土師右京亮、毛利因幡守、佐治但馬守、塩見源太以下、其勢合て五千余騎、前に深田をあて、左に河を境て、淀、鳥羽、赤井、大渡に引分々々陣を取る。
時は正平十年、北朝では文和四年(1355)2月、摂津神南(こうない、今の高槻市神内)で南北朝の合戦が行われた。ただこの頃はグダグダの内紛が続いており、足利尊氏・義詮と尊氏の庶子直冬が対立し、南朝勢と結んだ直冬が1月に京を占領していた。
これに対し、尊氏は近江東坂本に着陣、義詮は摂津神南に陣取った。直冬は東寺を本陣として、山名時氏・師氏親子を大将とする一軍は淀・鳥羽・赤井・大渡に布陣した。主に京都市伏見区の西部だろう。その山名軍に佐治但馬守という武将がいた。因幡の佐治一族に違いない。
戦いは直冬勢の敗北に終わり、やがて尊氏、義詮の覇権が確立することとなる。時氏・師氏親子も幕府に帰順し、時代は安定期を迎える。いったい、彼らは何のために戦っていたのだろう。戦争に大義などない。
いまウラジーミルの戦争で、世界は大変迷惑している。彼は核兵器の使用をちらつかせてまで、民主主義陣営を威嚇しているのだ。これに対抗すべく安倍元首相が核共有に言及した。ああ、そうだったのか。ウラジーミルと見た同じ未来とは、核兵器で脅し合う世界だったのだ。武勇で鳴らした佐治氏も真っ青になるくらいの戦争が、今この時も行われている。