高台に位置する岡山国際ホテルはけっこう遠くからも見つけることができ、天皇陛下がよくお泊りになっている。その理由は警備のしやすさだと聞いたことがある。アクセスルートが限られるから、確かにそうなのかもしれない。
現代では天皇、皇太子、その他皇族方のご旅行は珍しくないし、地方訪問は重要なお仕事でもある。平成17年のこと、うちから3㎞くらいにあるテニスコートで国体が行われ、天皇陛下がいらしたことがある。かつてなら記念碑が建てられたことだろう。
倉吉市仲ノ町の打吹公園に「飛龍閣」がある。国登録有形文化財である。
この瀟洒な和風建築は大正天皇ゆかりの建物だそうだ。時は明治40年というから、皇太子時代である。以前にレポートした洋風建築「仁風閣」も同じ目的で建てられた。仁風閣は片山東熊設計の名建築で国指定重要文化財である。飛龍閣はどうなのだろう。説明板を読んでみよう。
飛龍閣は、山陰地方を行啓予定の皇太子(後の大正天皇の)宿舎として明治37年に倉吉町(現在の倉吉市)により建設されました。その後、明治40年に皇太子の行啓が実現し、同年5月17日にこの飛龍閣に宿泊されました。
飛龍閣の名称は「易経(中国の書、占いに用いられる)」から出典されたもので、山瀬幸人氏が発案したといわれています。
建物に使用されている材木はすべて京阪神から取り寄せられ土台はクリ、柱はヒノキやマツが用いられ、垂木までも吟味されたマツの柾目材が使用されています。また、室内装飾、庭園の一樹一石も丹誠こめて築造されています。
昭和39年に老朽化した施設を改修、管理室を増築し、集会施設として一般開放しました。平成21年には大屋根の葺き替えなどの施設の保存補修と施設のバリアフリー改修を行い現在に至っています。
鳥取の仁風閣には5月18日から三泊された。皇太子は米子、倉吉、鳥取と進んで来られた。米子での宿舎は「鳳翔閣」といい、15日から二泊されている。こちらは今、門柱が残るのみだ。皇太子がご旅行になるというだけで、鳳翔閣、飛龍閣、仁風閣というキラキラネームの御屋敷が完成した。この時代ならではの最高のおもてなしである。
飛龍閣という名称を発案したのは、山瀬幸人という地方名望家。最初の衆議院議員も務めた人だ。設計者は山田市平という地元の大工さんだという。倉吉町民の思いは『山陰道行啓録』に次のように記録されている。
倉吉町は僅に御一泊のことなれば如何にもして奉迎の誠意を表し奉らんと種々計画を為しありしが朝来の強風にて折角準備せられある余興も如何あらんと我も人も天を仰ひで気遣ひしに午後より次第に風もなぎ小雨もやみて青天を現はしたれば町民の歓喜頂上に達し何れも我皇の余徳と畏みし
人々の熱いが伝わってくる。当時「日本国民統合の象徴」という規定はなかったが、皇太子の地方訪問で臣民の気持ちが一つになっている。高さ三十尺の大緑門が建てられたというから、お祭りと運動会が一度にやってきたような盛り上がりだったのだろう。
飛龍閣の前に2本の大木がある。写真では右がヒマラヤ杉、左が大王松である。「打吹公園の大王松」は「とっとりの名木一〇〇選」に選ばれている。傍らに古い石柱があり、「式部職次官伊藤公爵手植松 明治四十三年七月十九日」と示されている。伊藤公爵と見れば伊藤博文と思ってしまうが、博文はその前年に亡くなっているので当たらない。これは伊藤公爵家二代目博邦(井上馨の甥)のことである。
皇族方のプライバシーまで消費しつくす現代人には、嘉仁皇太子を奉迎した倉吉町民の思いは想像を絶するものだろう。敬うべき対象を持つ国民は幸せであり、敬うことをやめた時、その国体は失われるのである。
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