便利なものはすべて電気で動く。灯り然り、スマホ然り、もちろんこのPCも、そして自動車の電化が加速している。非常時最大の課題は、電源の確保と言って過言ではなかろう。
いっぽう今、世界各国で合言葉のように叫ばれているのが、脱炭素化によるカーボンニュートラルである。日本は化石燃料への依存度が高く、化石章まで受賞しているほどだが、目指すところは各国と同じだ。現在の発電施設を有効に活用し、低コストかつ安定的な供給を実現するという、まさに現実的な対応をしているのである。
小5の私が工場見学に行きおまけに下敷きをもらったのは、水島の火力発電所だった。この火力が標的とされている。原子力のリスクは身に沁みて分かったし、再エネは高コストかつ不安定。水素やアンモニアの活用は研究途上だ。
やはり日本には水力しかないのではないか。
三次市作木町香淀(さくぎちょうこうよど)に「唐香の江の川発電所跡」がある。唐香は香淀地内の字名である。
道沿いにあって立ち寄りやすいが、江の川の美しい流れを見る展望台があるばかりだ。脇の階段を降りると、眼前に迫力ある近代化遺産が登場する。説明板を読んでみよう。
唐香の江の川発電所跡
広島呉電力株式会社(現中国電力株式会社)が、江の川の豊かな水量と多くの瀬(落差)に着目して発電事業を計画し、大正6年(1917年)起工し、同8年竣工、翌9年9月から営業を始めたのが、唐香にあった「江の川発電所」である。
堰堤は鳴瀬の上手幅員約97メートルをせき、堰堤・発電所間の水路延長は約5.4キロメートル、幅約6.4メートル、深さ約3メートルと記録されている。発電所は第1次世界大戦の戦利品としてドイツより持ち帰ったもので、出力3,000キロワットでドイツ人技師が運転を指導したという。
この頃、大戦勝利の余波で景気はよく、電力需要は増加の一途をたどり、一方軍備の拡大と共に呉海軍工廠は多量の電力を必要としたので、これに応じるため能見まで水路を延長して二倍の発電量を計画し、大正14年起工昭和2年10月現在の能見発電所が営業を始めた。
作木村誌より抜粋
大正時代は各地に水力発電所が建設され、家庭生活でも工場の稼働においても電気が欠かせなくなってきた。発電所の建設ラッシュで電力過剰が生じ、電力会社の再編が進んだのもこの頃である。
江の川発電所を建設したのは「広島呉電力」だが、これは渋沢栄一が設立を支援した広島水力電気と呉電気鉄道が合併してできた会社である。呉市内には電車を走らせていた。
大正10年には広島電灯と合併して広島電気となり、熊見発電所を建設することとなる。説明文中の能見は誤りである。現在は新熊見発電所として稼働している。江の川発電所は熊見発電所ができたことで廃止となった。
注目すべきは発電所が第一次世界大戦の戦利品だったということだ。これは略奪品ではないのか。惜しみなく奪うのを常とした中世の戦争ならいざ知らず、一定のルールの下で行われる戦闘行為においては、戦利品とは敵軍から奪った武器のことだ。
ドイツ人技師も連れてきたというが、本人の意に反した強制連行ではなかったのか。徳島の板東俘虜収容所の美しいエピソードがあるばかりに、国際親善のように語り伝えられている。
古い水力発電が注目されている。大規模なダム発電ではなく、地形の高低差を利用する小規模な発電所だ。岡山市東区福治の西大寺小水力発電所もその一つで、有効落差30m、出力110kWhである。電源の追求は大正の昔も令和の今も変わることなく続けられている。
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