現代に続く近世の城下町は大きな河川の流れる沖積平野に形成された。これは治水技術が向上したからこそ可能になったのだが、自然の猛威は人間の技術力をしばしば上回った。鳥取の千代川は暴れ川で、記録に残る洪水は、江戸時代から明治に至る250年間におよそ100回、明治以降今日に至る100年間におよそ130回を数えるという。
鳥取市浜坂に「重箱緑地」がある。
水辺にあるこの美しい公園は、かつての千代川なのだ。現在スーッと北上して日本海に注ぎ込む千代川は、昭和になるまで下流部で大きく湾曲していた。地形図を見れば八千代橋のあたりから重箱緑地方面にかけて旧河道を確認できる。遊具近くにある説明板を読んでみよう。
河川改修の歴史と「重箱」の語源
「重箱緑地」は、昔、千代川が流れていた跡を利用して作られた「浜坂遊水池」の中にある、暴れ川だったころの千代川の名残りです。かつての千代川は「暴れ川」で、大雨の都度、鳥取の町は大きな被害を受けてきました。江戸時代の水害では、城下町から賀露の沖まで家が流された人もあったと言われています。多数の水死者を慰めるための慰霊碑もつくられました。明治以降も繰り返し水害は起こり、特に大正7年・大正12年の二度の水害は、大きな被害をもたらしました。
鳥取の人々が国に強く働きかけた結果、大正15年から昭和7年にかけて、大きく曲がっていた千代川の流路を現在の形に付け替える工事、昭和3年から9年にかけては袋川を新袋川に分岐させる工事が、それぞれ国の事業として行われました。
一説によると「重箱」という地名は、周辺を埋め立てるときに用いた工法が、重箱のように土手を積み重ねるものだったためにつけられたものと言われています。
写真は穏やかな暮らしを象徴するかのような風景だが、かつての洪水時は激しい濁流がみられたことだろう。今は遊水池となったこの場所が、水没することのないように願うばかりだ。緑地から河口に向かって少し進み、住宅街の高台に登ると江戸時代の自然災害伝承碑がある。
鳥取市浜坂二丁目に「溺死海会塔」という生々しい名称の石碑がある。
いったい、いつ何事があったのだろうか。重箱緑地北側にある駐車場に「重箱緑地周辺の歴史」と題された説明板があり、溺死海会塔について次のように記されている。
溺死海会塔
寛政7年(1795年)の洪水の水死者(約650人)の霊をまつるために建立されました。伊藤惟猷が選び、屈微が書き起こした碑文が正面以外の三面に刻まれています。現在は浜坂団地の一隅の高台にあり、改修された千代川を見下ろしています。
被害が発生したのは旧暦の8月29日。大雨で袋川が出水し、多くの人々が溺死した。当時の袋川は浜坂で千代川に合流していたので、このあたりに死体が流れ着いたのだという。石碑は顕功寺が七回忌法要を営んだ享和元年(1801)に建立された。
文字は風化に耐え、今もはっきり読むことができる。碑文の最後には「伊藤惟猷誌 屈徴書」とある。説明板の「微」は誤りだろう。屈は「堀」のことで、伊藤も堀も鳥取藩の儒学者であった。
この石碑は自然災害伝承碑として地理院地図に掲載されている。できるなら石碑の側に説明板を設置し、碑文の現代語訳を掲載してほしい。自然災害と向き合うことが宿命の私達は、過去に学ぶ必要があるからだ。備えあれば患いなし。
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