安部元首相暗殺事件の衝撃波は未だ現代社会を揺らしている。国葬の適否、追悼演説の人選、警備体制の検証、帯広市教委の半旗掲揚要請、そして政治と宗教の密接な関係性など、死せる孔明生ける仲達を走らすかのような影響力である。
このようなテロ事件がまさか日本でというショックも大きかった。安全神話がまた一つ崩れたのである。ところが、我が国でもテロの嵐が吹き荒れた時代がある。それは幕末。尊攘派志士や新選組が死闘を繰り広げていた。本日はテロに斃れた国学者の話である。
洲本市本町四丁目の厳島神社に「鈴木重胤(すずきしげたね)歌碑」がある。
説明板がそこになければ完全にスルーしていたことだろう。理解できないものは、無に等しいのである。人生が変わる深イイ旅は説明板から始まることさえある。次のように刻まれているそうだ。
鈴木重胤歌碑
まつ杉はまだほの
闇き木の間より曙いそぐ
山桜かな
重胤
鈴木重胤は淡路の偉人の一人と称される幕末の国学者である。文化九年(一ハ一二)淡路市仁井の庄屋に生まれ、大國隆正と深く交わり、平田篤胤の死後の門人となる。主要な著作に「祝詞講義」、「日本書紀伝」などがある。文久三年(一八六三)没。享年五十二才。
厳島神社
明け方、山の木々はほの暗いのだが、山桜だけは待てないかのように明るく見える。微妙な陰影を捉える日本人の美意識がここに表されている。淡路出身だが生地は旧北淡町だからもう少し北の方だ。
大人(うし)と呼ばれる国学者の先生は「~のや」と称することが多く、重胤大人は橿廼舎(かしのや)と号している。師事した大國隆正は佐紀乃舎(さきのや)、平田篤胤は気吹廼舎(いぶきのや)という。本居宣長の書斎を鈴屋(すずのや)と呼ぶが、何か関係があるのだろうか。
事績では日本書紀の注釈書である『日本書紀伝』の評価が高い。完成していれば『古事記伝』と並び称されるほどの偉業となったのかもしれない。『日本書紀伝』が未完に終わったのは、文久三年八月十五日に江戸の自宅で刺客に襲われて亡くなったからだ。幕末でもこの年のテロは特に激しかった。
その十五日、暮六(くれむつ)というから午後6時過ぎだろうか、松平山城守の家来と名乗る侍二人が重胤に面会を求めた。奥から出てきた重胤が玄関で応対していると突然斬りかかってきたらしい。驚いた息子の重兼が飛び出ると、斬り付けてから逃げ去ったという。
下手人は今もって分からない未解決事件である。重胤が幕政批判をしていたためとも、平田篤胤の後継者銕胤と対立したためともいう。つまり幕府側か尊攘派か、犯行の動機は結局不明である。まさか宗教がらみの個人的うらみではないだろう。
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