今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな
百人一首63番で知られる左京大夫道雅の思い人は、三条天皇の皇女当子内親王であった。道雅は勅勘を蒙って内親王との恋仲を引き裂かれ、その後は荒三位と呼ばれるほど粗暴な振る舞いが目立ったという。
いっぽう当子内親王は出家、その数年後に若くして亡くなることとなる。没年は治安二年(1022)、ちょうど一千年前のことである。やんごとなき方々の悲恋は、百人一首となって今も愛唱されている。
悲恋は時代、そして身分を問わない。そこここで今も起きているのかもしれない。本日は美作の深い山中が舞台の悲恋物語を紹介しよう。
津山市阿波に「お夏の墓」がある。行く道は岡山県道・鳥取県道118号加茂用瀬線。夏の嵐の後だったから木の葉や枝が散乱している。車の通行を妨げる倒木があったものの、なんとか動かすことができた。
分岐道の状態がよければ墓近くまで車で行けるようだが、この日はかなり手前から歩いて行った。川沿いの道では、せせらぎが心地よく耳に届く。
上は分岐地点にある「鱒返りの滝」、下は分岐道の途中にある「みこ渕」である。奥へ奥へと進むと墓地が現れる。盆や椀などの木工品を製作した木地師の墓所である。その中にある首なし地蔵がお夏の墓だという。
お夏という女性の物語が気になるが、説明板は現地ではなく3.5km手前の県道沿いに建てられている。読んでみよう。
「おなつ」の伝説
昔、深山にはたくさんの木地師が住んでいた。ある木地師におなつという一人娘がいた。
おなつは、稀に見る美しい娘で、備前から来た若い木こりと恋仲になり、将来を誓い合った。しかし、深山での仕事を終えた若い木こりは、「必ず迎えに来る。」と固い約束をして、去っていった。 若い木こりを心待ちに、ますます美しくなったおなつは、ある日藩主の目にとまってしまう。お城に上がるように言われたおなつは、若い木こりとの誓いに小さな胸を傷め、とるべき道はただ一つと裏山から暗い谷底へ身を投げた。
その淵を「おなつヶ淵」といい、この淵でときどき夜になると女のすすり泣くような声が聞こえて来ることがあるという。
深山にある木地師の墓地の片隅にたたずむ、苔むした首なし地蔵が、おなつの墓であり、お地蔵さんの首を抱いて寝ると、おなつのような美しい娘が生まれるという伝説がある。
津山市
一途な恋心を大切にしようとするお夏。権力を背景に本人の意思に反する出仕を命じた殿様。期待を抱かせる言葉だけを残して去った若い木こり。悲恋物語の出演者たちである。若い木こりはなぜ去り、なぜ戻らなかったのか。お夏にとっては運が悪かったのか、相手が悪かったのか。
お夏伝説はけっこう有名なようで、土井卓治編著『吉備の伝説』(第一法規)「お夏淵」には、次のように記されている。
お夏はまれにみる美人で、すでに人妻であったが、津山の殿様が側室に召し抱えると強要されたので、少し下手にあるミコ淵に投身して死んだ。
ここでは若い木こりの不可解な行動はない。説明板の「おなつヶ淵」は「みこ渕」だと分かる。それほど深いとは思えないが、夜には絶対来たくない場所だ。
島田秀三郎『心のふるさと 美作伝説考』によれば、お夏は木地師の名門「小椋源右衛門」の娘で、恋仲となったのは「流れ木挽の又八」だった。この恋を許さない源右衛門が又八を追放したため、悲観したお夏は又八の幻に手招かれて投身した。ここでは津山藩主は登場しない。
死に至らしめるパワハラをしたのは御公儀か父親か。欲であれ体面であれ、自己都合を押し通すのが権力者なのか。権力の陰には必ず犠牲者がいることを、お夏の墓は示唆しているのだろう。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。