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ご当地富士は全国に分布している。そのうち「播磨小富士」と呼ばれる山が複数あり、三草山もその一つだ。この山の名を聞けば、義経ファンは三草山合戦を思い起こすだろう。さっそく登ってみよう。
登山路はいくつかあるが、畑ルートを進むと、このような風景に出会うことができる。少々扁平なようだが「富士」に見えなくもない。三草山の山容を一望しながら、説明板を読んでみよう。
源平古戦場(三草山)
平家物語によると、寿永三年(一一八四年)二月、源九郎義経率いる一方騎は、丹波小野原(現、篠山市)に布陣し夜半、民家や山野に火を放ち、三草山西の山口に陣取る小松三位中将資盛ら平家七千余騎を襲撃しました。不意の闇討ちに平家の軍勢は弓矢を取るいとまもなく、屋島をさして敗走していったとのことです。
また、それから後の南北朝の時代、播磨から京都に入る要衝の地として三草山には、城がありました。城主は、赤松出羽守則友といい、山名氏との戦いにおいて軍功のあった人です。当時の名残である土塁が、今もなお山頂付近に残っています。
近畿自然歩道 環境省・兵庫県
正確には、この山の向こう側の麓が義経が駆け抜けた古戦場である。しかし、疲れた足を休めるには、このくらいワクワク感のあるエピソードが必要だろう。さあ、元気を出して頂上を目指そう。
加東市の上三草と畑にかけて、標高423.9mの「三草山」がある。
手前の標柱は二等三角点「三草山」である。
「三草山城臺標」と刻まれた古い記念碑がある。
新しいほうの記念碑には、次のように記されている。
三草山城趾
三草山は播磨平野の北東隅にあり、山麓をはしる街道は、古くから、播磨と丹波を結び京の都への要路であった。
寿永三年二月、平家追討のため、源九郎義経の率いる一万騎は、丹波小野原の里に布陣し、夜半、民家や山野に火を放ち、三草三里の山中を駆け抜け、一挙に平家の陣に突入した。三草山の西の山口に陣取る小松三位中将資盛、左中将有盛など平家一門七千餘騎は、不意の夜討ちに弓矢を取るいとまもなく、もろくも、屋島をさして敗走していった。これが世にいう「三草合戦」と、「平家物語」などの伝えるところである。その後、建武三年、赤松出羽守則友がこの地に山城を築いた。嘉吉元年の騒乱のとき、三草口に赤松方の将宇野能登守国祐が配置され、また、「嘉吉の乱」の後にも、赤松満政、則尚が三草山城で山名方の軍勢と一戦を交えて敗れたことなど、三草山にまつわる歴戦の史である。
新社町発足二十五周年記念事業として、清水・東条湖県立自然公園内のこの地に、「三草山遊歩道」を新設し、住民こぞって郷土の歴史的遺産を保存し、学園都市社町のシンボルとすべく、ここに碑を建立するものである。
昭和五十五年四月
三草山に遊歩道をつくる会長
社町長 石古勲
三草山は源義経というよりも、赤松氏ゆかりの城であることが分かる。有名な地誌『播磨鑑』には赤松出羽守則友について、次のように記されている。
城主は赤松出羽守則友(氏康とも云)円心入道の五男建武の軍には数度の武功を尽し文和の比山名と戦闘の時は命を塵芥の如くなし忠戦を励みし人なり
ところが『赤松家播備作城記』には、次のような記述がある。
三草山城(又号朝光城加東郡福田庄)
有馬出羽守則友(有馬出羽守則貞子也初築之居城)
同左衛門尉友如(長子也相続所嘉吉元年落城)
ということで、築城者はよく分からないのだが、その後の歴史も含めて考えると、赤松氏と山名氏の主戦場だったことは確かだろう。特に嘉吉の乱においては、将軍を殺害した赤松本家と共に行動したのは宇野氏であり、赤松満政や有馬氏は山名氏を主力とする追討軍に加わった。
討伐成功後に赤松満政は山名氏と争うこととなるが、その満政を倒したのは有馬氏であった。有馬氏も宇野氏も大きく捉えると赤松一族だが、満政も含め同族相食む激しい勢力争いが、三草山城を舞台に繰り広げられたようだ。ただし、結局の勝者は山名宗全率いる山名氏であった。
源平古戦場として知られる三草山。その山城は嘉吉の乱の舞台であった。電撃的に進軍して平家を追い散らす義経もいいが、自らの生存をかけて骨肉の争いをした赤松一族からも学ぶべき点は多い。現実の争いは後者のようにドロドロだ。
義経も平家もいなくなり、赤松氏も宇野氏も戦国の荒波に消え去った。その後の歴史に生き残ったのは山名氏と有馬氏である。交代寄合として家名を存続した山名氏に対して、有馬氏は21万石の久留米藩主家としての格式を誇った。播磨小富士から大きな歴史の流れが垣間見える。
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