兄弟喧嘩もいい加減にしてもらわないと、国の行く末が案じられる。世界史ならクレオパトラ7世フィロパトル(姉)とプトレマイオス13世テオス・フィロパトル(弟)、日本史なら天智天皇(兄)と大海人皇子(弟)であろう。国民そっちのけの権力闘争だったに違いない。
加東市光明寺の光明寺本堂の裏手に「光明寺合戦本陣跡」がある。
この合戦の当事者は足利尊氏(兄)と足利直義(弟)である。同母でありながら、国を左右する争いを起こすとは何事だろうか。尊氏がざっくりと考えるのに対して、直義はきっちりとした性格だったらしい。だが、そんなことが決定的な対立を引き起こすとは思えない。駐車場にある説明板には、次のように記されている。
光明寺合戰
貞和四年(1348)の吉野焼討ちで、南朝を制圧した北朝方では、足利尊氏・直義兄弟の争いが表面化した。いわゆる観応の擾乱である。中国筋平定のため、書写山に依った尊氏を討つべく、石塔頼房(いしどうよりふさ)は五千余騎で光明寺に陣を構え、八幡(京都府)の直義に援軍を求めた。
それと知った尊氏は、援軍の来る前に打ち破ろうと一万騎を率い光明寺を囲んだ。
観応二年(1351)二月四日のことである。
尊氏は引尾(ひきお)山、高師直は鳴尾(なきお)山、赤松則祐は八幡(はちまん)山に陣をしいた。仁王堂や東坂で激戦が展開されたが、いずれも寄手が敗れた。両軍の対峙は10日におよんだが、城の後詰がせまったので寄手は摂津まで軍をひいた。
のち尊氏は直義と和睦し帰京したが、高師直・師泰兄弟は摂津の鷲林寺(しゅうりんじ)で処刑された。
(『太平記』巻二十九による)
この頃、直義の養子である直冬が中国・九州で威勢を振るっていたことから、尊氏は中国筋平定に出陣する。この隙を狙った直義は南朝に降り、尊氏との対決姿勢を強める。直義派の石塔頼房はここ光明寺に陣を構え、二十数キロ先の書写山に拠る尊氏に睨みを利かせた。
機を見るに敏な尊氏は、やられる前にやっちまえと光明寺のすぐ北にある引尾山に引き返してきた。高師直は引尾山の東にある鳴尾山、赤松則祐は光明寺の南に位置する八幡山に構えた。光明寺は包囲されたのである。本陣跡の石碑近くの説明板を読んでみよう。
光明寺合戦本陣跡
観応2年(1351)2月、足利直義方の石塔頼房が五千余騎で当山にこもったとき、本堂及びこのあたりに本陣が置かれたと推定される。
往時の光明寺は、本堂の西と南に僧坊が集まり、表参道や仁王堂も南の山腹にあったらしい。そのため、寄手の総大将・足利尊氏は引尾山に陣し、高倉尾から仁王堂を攻めた。つまり、こちらが大手であった。 寄手と城方愛曽(あそ)伊勢守が激しく戦ったのも、この仁王堂付近である。
表参道が東坂に移り、仁王門が現在地に建てられたのは、近世初期と思われる。
加東市観光協会
南側の山腹で激戦が行われたらしい。『太平記』巻第二十九「光明寺合戦事付師直怪異事」には、次のように描写されている。
石堂城を堅て光明寺に篭しかば、将軍は引尾に陣を取り、師直は泣尾に陣をとる。名詮自性(みょうせんじしょう)の理(ことわり)寄手の為に、何れも忌々しくこそ聞へけれ。同四日より矢合して、寄手高倉の尾より責上れば、愛曾は二王堂の前に支て相戦ふ。城中には死生不知のあぶれ者共、此を先途と命を捨て戦ふ。寄手は功高く禄重き大名共が、只御方の大勢を憑む許にて、誠に吾一大事と思入たる事なければ、毎日の軍に、城の中勝に不乗云事なし。
石塔頼房が光明寺に籠城すると、足利尊氏は引尾山、高師直は鳴尾山に陣を構えた。名は体を表すと言うが、「ひく」とか「なく」は寄手には不吉に聞こえる。二月四日に矢合わせをして、尊氏方の寄手が高倉の尾から攻め上ると、直義方の愛曾伊勢守(伊勢の武家)が仁王堂の前で防戦した。籠城するのは命知らずの者どもで、ここぞ勝負と命をかえりみず戦った。尊氏方は大物武将が数を恃んで切迫する思いではなかったので、籠城する直義方は勝負に勝たないことはなかったのである。
という具合で、尊氏方は吉凶占いのとおり敗北することとなった。また、合戦のさなかに無文の白旗が高師直の陣中に飛来するという出来事があった。旗には二首の歌がしたためられていたが、よく読むと「高」「ちりゆく」「武蔵」「かれにけり」と、高武蔵守師直の行く末を暗示する内容だったという。観応の擾乱は同三年の直義殺害まで続くこととなる。
本陣跡の隣に「光明寺本堂」がある。国の登録有形文化財である。この建物は光明寺合戦とは関係がない。説明板を読んでみよう。
光明寺本堂(金堂)
この建物は大正十四年(一九二五年)四月故武田五一博士の設計により鎌倉時代の建築様式をもって再建されたものである。屋根は銅板葺きの入母屋造りで九間四面(二七〇平方メートル)の広さをもつ。内陣の宮殿には法道仙人の作と伝えられる本尊千手十一面観世音菩薩と脇士として不動明王と毘沙門天王の二尊像を奉安する。又脇段には当山開基法道仙人・聖徳太子・宗祖弘法大師の各尊像も合わせて安置してある。外陣は畳敷きで一山の主なる法要はここに於いて厳修される。新西国第二十八番播磨西国第十八番の霊場でもある。
ここで注目したいのは建築家武田五一である。ずいぶん前の記事「戦前最長のアーチ橋」でその作品を紹介した。今回思いがけず博士の手掛けたお堂に出会い、様々な分野で大きな足跡を残していることに改めて感服した次第だ。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。