ビスケットで有名なギンビスに「動物四十七士」という商品があるそうだ。「たべっ子どうぶつ」のルーツに位置付けられる商品とのこと。「動物四十七士」には47種類の動物がいるが、「たべっ子どうぶつ」には46種類しかいない。いないのは耳の欠けやすいコアラだというのが、ネット上のネタになっている。もっとも私は「アスパラガス」しか食べたことがない。
赤穂藩の四十七士も実際に切腹したのは46人だから、整合性は取れているということか。本日は四十七士の墓にお参りして来たのでレポートする。といっても、東京の泉岳寺でも赤穂の花岳寺でもない。
加東市家原(いえはら)の観音寺は「赤穂義士菩提所」として市史跡に指定され、四十七士の墓がある。
浅野家の菩提寺である泉岳寺の墓所は、元禄十六年(1703)の切腹後に義士が埋葬された場所である。国元の菩提寺である花岳寺の墓所は、元文四年(1739)の三十七回忌に建てられた。建立に尽力したのは、赤穂藩森家の家臣有志である。
では、ここ播磨家原にある墓所は、いったい誰がいつ建てたのだろうか。説明板を読んでみよう。
赤穂四十七士の墓所 観音寺
観音寺は、貞享三年(一六八六)に家原浅野家の菩提所として創立されたと伝えます。寛文十一年(一六七一)赤穂藩浅野家から加東市内十一ヶ村三五○○石を分知された浅野長賢が、当家原村に陣屋を構えて旗本家原浅野氏の祖となりました。
観音寺は創立以来、浅野家の香花所として崇敬されました。元禄十四年(一七〇一)浅野長矩公の殿中刀傷により赤穂浅野氏は断絶となりましたが、家原浅野氏は、廃藩まで七代二○○年続きました。赤穂四十七士の義拳から一五〇年を経て弘化四年(一八四七)墓所建設の呼びかけに応じて家原・穂積両陣屋をはじめ、近郷近在の多くの有志から浄財が寄せられ現在の立派な墓所が完成しました。
以来今日まで、毎年十二月十四日は、赤穂義士の忠誠を讃えて義士祭が盛大に営まれます。
廃藩以後、寺も廃寺同様に荒れましたが、明治十七年、西田玄孚尼によって再興されました。
加東市・加東市観光協会
家原に陣屋を構えたのは旗本浅野氏。初代の浅野長賢(ながかた)は竹谷松平家の出で、赤穂藩初代の浅野長直の養子となった。その後、長直に実子長友が生まれたため、家督を継がず分家することとなった。長友の子が有名な浅野内匠頭である。家原浅野家は事件後も存続し維新を迎えた。ちなみにもう一つの分家、若狭野浅野家も明治に至っている。
また、穂積に陣屋を構えたのは旗本八木氏。元禄十六年(1703)にこの地を拝領して明治に至ったが、それ以前は赤穂藩領として代官所が置かれていた。ここには義士のひとり吉田忠左衛門が在番していたという。このようなゆかりから墓所建設に協力したのだろう。
19世紀中葉は義士ブームで、銘々伝の刊行、顕彰碑の建立、芝居の上演などが次々に行われた。この時代思潮も墓所建設に大きく影響したに違いない。
墓所の入口に「観音寺薦誠碑」がある。撰文と書は7代当主の浅野長祚(ながよし)、篆額は出羽亀田藩8代藩主の岩城隆喜(たかひろ)である。隆喜は長祚の妻の父に当たる。碑文には「我宗家之滅距今百有五十年」「嘉永元年歳次戊申冬十一月建」とあり、1848年に150年前の事件を偲んで建てられたものだと分かる。
今年は鉄道開業150年、資生堂操業150年、税関発足150年…。まさに近代がスタートして、現在に直結している。おそらく江戸後期に生きる人々にとっても、元禄赤穂事件はアイデンティティにかかわる重要な出来事だったに違いない。
『忠臣蔵』のすごい所は、封建社会の終焉を迎えた後も人気を維持したことだ。借りは必ず返す。それは人間の普遍的な感情なのだろう。しかし、テレビの大型時代劇としてたびたび放映されていた『忠臣蔵』を、近年見かけなくなった。それは若者の価値観が変化したからなのか、それとも番組制作費が捻出できないからであろうか。おそらく後者ではないだろうか。
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