元禄14年(1701)の浅野内匠頭(たくみのかみ)の殿中刃傷事件により、赤穂藩はお取り潰しとなった。家老・大石内蔵助は内匠頭の弟・大学によるお家再興を期待していたが、それもならず、同志とともに討ち入りに及ぶ。大学は広島の浅野宗家にお預けになっていたが、宝永6年(1710)に赦され、翌年、安房国朝夷郡・平郡に500石の所領を与えられ、旗本として再興を果たす。以後、浅野大学家の所領は安房・上総の域内に留まる。
赤穂から浅野家は消え去ったのか。といえば、そうでもない。
相生市若狭野町若狭野の須賀神社の境内に「浅野家陣屋跡碑」がある。若狭野十二ヶ村三千石の旗本陣屋であった。1600平米の広い敷地である。旧若狭野村は赤穂郡に属していた。
南には、札座(藩札をつくったところ)の建物であった法界庵が残っている。重厚な建物のようで、保存・活用が期待されるところだ。
若狭野の浅野隼人家は、寛文11年(1671)に、赤穂藩初代藩主・浅野長直(内匠頭の祖父)の養子・浅野長恒(実父は大石良重=内蔵助の大叔父)が分家したことに始まる。
長恒は、元禄14年当時、伊勢山田奉行に就いていたが、内匠頭の刃傷事件で出仕を止められた。後になって赦され、堺奉行に復職している。浅野隼人家の歴代を『徳川旗本八万旗人物系譜総覧』(新人物往来社)によってたどってみよう。
①長恒 壱岐守
使番、山田奉行、堺奉行
②長豊 隼人 享保十七年相続
③長寿 河内守 寛保二年相続
④長致 壱岐守 安永三年相続
書院番頭、大番頭、駿府城代
⑤長盈 遠江守 寛政十二年相続
⑥長和 猪三郎 天保十三年相続
⑦長発 隼人 万延元年相続
寄合肝煎、歩兵頭並
初代長恒と並んで出世している4代長致の実父は、越後村松藩第5代藩主の堀直堯である。長致が駿府城代を務めたのは寛政11年(1799)から翌年の短期間であった。
浅野隼人家は赤穂藩浅野家と近しい関係にあったことから、刃傷事件による改易後に赤穂本家の文書を引き継ぎ、後世に伝えてきた。その展覧会が2009年末から翌年初めにかけて、江戸東京博物館において「旗本がみた忠臣蔵-若狭野浅野家三千石の軌跡-」として開催された。
浅野内匠頭長矩が「内匠頭」に任ぜられた時(延宝8年・1680)の口宣案(くぜんあん=辞令)など貴重な資料が展示されたらしい。
赤穂郡内に所領があるとはいえ、当主は江戸で幕府に忠勤を励んでおり、若狭野陣屋では役人が年貢徴収など所領支配の実務を行っていた。しかし、最後の当主である長発だけは若狭野陣屋に住んだそうだ。
また、長発は維新後に赤穂浅野家主従の御赦免を新政府に願い出ている。時を経ても思いは受け継がれていた。浅野家は家中の者が忠臣なら、分家まで忠義の一族であった。
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