数ある城郭の中でも、私は洲本城を強く推したい。壮大な石垣群に広い曲輪、そして現存最古の模擬天守。野面積みの石垣は野趣に富んで心が安らぐ。車でのアクセスは容易で、散策はちょうどよい運動量になる。天守付近からの眺望は洲本八景の一つに数えられるほど美しい。
洲本市小路谷(おろだに)の三熊山に国指定史跡の「洲本城跡」がある。
天守閣はピロティがある斬新なデザインで、戦国武将が見ると腰を抜かすだろう。近くに寄って見ると石製の銘板があり、次のように刻まれている。
念記禮大御
閣守天
町本洲
築建度年参和昭
昭和天皇の御大典を記念して建てられた現存最古の模擬天守である。正確には昭和三年の御大典を記念して翌四年1月に着工して5月に竣工したので、建築年は1929年となる。昭和三年度の予算で年度内に着工されたので、銘板が誤っているわけではない。
当時は岐阜城に最古(1910)の木造模擬天守があったので「現存最古」だが、鉄筋コンクリートという新素材の城としては日本初と言ってよい。鉄筋コンクリートの後輩である大阪城天守閣は国の登録有形文化財となっているが、洲本城天守閣は特段の評価がなされていない。竜宮城みたいに奇抜なデザインのせいだろうか。
これは「本丸大石段」である。規模は近世城郭だが、石の積み方に古さを感じる。いったい、いつ誰が築いたのか。説明板には次のように記されている。
天正十三年(一五八五)
秀吉の四国攻め始まる。弟秀長、養子秀次で戦闘指揮
六月十八日 洲本城より出陣、福良渡海
仙石秀久は讃岐で奮戦、戦後高松城主となる。
十一月脇坂甚内安治(中務少輔)洲本城主となる。
洲本城の本格的修築始まる。現在の遺構は殆んどが脇坂氏在城中に修築したものである。
当時、洲本城は仙石秀久が預かっていた。戦後の論功行賞では、奮戦した秀久に讃岐が与えられ、淡路は脇坂安治に任された。この安治が今見る洲本城を築いたのである。ホンモノの天守も、この時代に造られたらしい。
その後、関ヶ原を経て慶長十四年(1609)に安治が伊予大洲に移されると、いったん藤堂高虎(津藩)の領地となり、翌年に池田輝政(姫路藩)に与えられた。輝政の代官は岩屋城を拠点としたので、洲本城は利用されなくなる。同十八年(1613)に輝政の子忠雄に淡路が与えられ、由良成山城が本拠となる。
元和元年(1615)に大坂の陣の功により、淡路は蜂須賀至鎮(徳島藩)に与えられ、代官が由良に入った。ところが、由良があまりにも不便なため、寛永十二年(1635)に洲本に拠点が移されることになる。いわゆる「由良引け」である。ただし山上の城跡は利用されることなく、石垣を残して破却されたということだ。
あの石垣の上には、どのような建造物があったのだろう。西に天守台、東に小天守台があることから、国宝松本城のような連結式の天守を構えていたのであろう。さすがにピロティまではなかったのではないだろうか。
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