骨肉の争いとはよく言ったもので、骨と肉が争ったら身体がぶっ壊れてしまうだろう。豊臣秀吉と秀長兄弟のように仲良く天下統一に邁進すればよいが、足利尊氏と直義兄弟のように誰が敵味方か整理できないのは困る。
一番悲劇的なのは後継者争いの当事者になることだ。本人の野心もあろうが、勢力拡大を画策する家臣団や周辺勢力のそそのかしもあるだろう。織田信長と信行兄弟の争い、徳川家光と忠長兄弟の争いはつとに知られる。どちらも兄より弟のほうが聡明だという噂が立った。本日は毛利元就と元網兄弟の場合を見ることにしよう。
安芸高田市吉田町吉田と吉田町相合の境に「船山城跡」がある。
東西に長い城で郭の平坦面や堀切がよく分かる。それほど大規模な城ではないが、周囲は急峻で守りに適している。ここは毛利元就の弟元綱の城である。説明板を読んでみよう。
船山城跡(ふなやましろあと)・船山社(ふなやましゃ)
高田郡吉田町左円(さえん)
この細声峠(ほそごえとうげ)の左側の山が船山で、この丘陵上に船山城跡がある。
郭は東西に延びる尾根上に直線に並び、中央の堀切によって東西の郭群に分かれる。
本城跡は、毛利元就の異母弟相合四郎元綱(あいおうしろうもとつな)が住んでいたが、一五二四(大永四)年元就の本家相続の際、元就に反逆を企てたかどにより誅せられた。(相合の明善寺の近くに相合四郎の墓と伝えられる五輪塔がある。)
右上にある祠は、元綱の霊が成仏せず崇りをするので、村人が船山権現社として祀り、その霊を慰撫したものである。今では、左円地域の人々の守り神として祭られ毎年一〇月一〇日に例祭が行われる。
一九九七(平成九)年三月
吉田町教育委員会
誅されたのは相合四郎元網だけではない。渡辺勝(すぐる)、坂広秀という重臣も滅ぼされた。さらに背後には尼子氏がいたというから、御家乗っ取りの企みがあったのだろう。
峠に降りて反対側の山を少し登ると「船山神社」がある。元綱の霊が成仏せず祟りをしたというから、元綱は利用されただけで謀反の意志はなかったのかもしれない。説明板で紹介されている相合四郎の墓にも行ってみよう。
安芸高田市吉田町相合に「相合四郎之墓」と刻まれた石と塔の残欠がある。
この「相合四郎」が謎なのは、あの有名な『陰徳太平記』に「相合フ四郎就勝」として登場し、謀反を起こしているからだ。確かに元就の弟就勝(なりかつ)は四男で、元綱は三男である。しかし、大永四年に滅ぼされたのは元綱であって就勝ではない。では、この相合四郎とはどちら?という疑問も残る。
就勝が謀反したという『陰徳太平記』の記述は誤っているのだが、巻第五「相合就勝謀反付生害之事」に興味深い記述がある。
上総介就勝は九郎義経にも劣らず軽業(かるわざ)兵法の達者にて
この就勝を元綱と読み替えて、義経のようなイケメン武将とする見方がある。イケメンだったかどうかは分からないが、『陰徳太平記』には壮絶な討死が描かれており、毛利の当主に推されるだけの資質があったのかもしれない。
これだけの大事件でありながら、元就はこの粛清について一切記録に残していないという。元就にとって兄弟が争うなど、あってはならないことだったのだ。おそらく、このつらい記憶が、兄弟結束せよという三矢の訓(みつやのおしえ)につながったことは間違いないだろう。
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