大河『鎌倉殿の13人』では、山本耕史演じる三浦義村が常にキーパーソンとなる。最後まで生き残るのは、こういう男なんだなと思わせる。しかし、この三浦氏も義村の子の代に滅ぼされてしまう(宝治合戦)のだから、鎌倉の権力闘争は本当に怖い。
本日は三浦氏の城の探訪レポートである。と言っても舞台は西国の作州勝山。なぜここにいたのか。逃げてきたのだろうか。
真庭市勝山に市史跡の「高田城跡」がある。本丸跡は広く、旭川沿いに広がる勝山の町並みを眼下に収めることができる。
この城はかなり規模が大きく、交通の要衝を確保できることから、尼子氏、三村氏、浦上氏、毛利氏、そして宇喜多氏らが激しい争奪戦を繰り広げた。毛利氏と宇喜多氏の争いが激化した天正八年(1580)には、毛利氏の美作攻略の拠点として、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景という錚々たる武将が入城している。この時の文書がこれだ。
吉川元春書状写(吉川家中井寺社文書十)『久世町史』資料編第一巻
急度申入候、昨日爰元至高田陣替候、然者兵粮闕如之儀候、就其用段之儀申候て、此者進之侯、万両人申聞候、委細可申入候、猶任口上候、恐々謹言
(天正八年)二月四日
(吉川)駿河 元春御判
今田上野介(経高)殿 進之候
高田に陣替えしたよ。だけど兵粮がねえんだ。それでこいつを使わしたんで、そこんとこよろしく。散策ルートを進むと、中世山城の特徴を見つけた。
本丸から東に延びる尾根筋にある堀切だ。どのような城なのだろうか、説明板を読んでみよう。
真庭市指定史跡 高田城
昭和42年4月6日指定(平成17年7月15日、三の丸遺跡を追加)
高田城の歴史
高田城は、勝山の街並みの背後にそびえる山城です。
戦国時代が始まって間もない文亀元年(1501)、高田荘を本拠とする国人三浦氏の当主、貞連が最初の城主になったと伝えられます。以降、貞国、貞久、貞広と代々の当主が居城とし、尼子氏・毛利氏など近隣勢力と城の争奪を重ねています。天正3年(1575)に三浦氏が退去した後は、毛利、宇喜多、小早川、森の各氏が支城として利用しました。
その後一度は廃城となったものの、明和元年(1764)、新たに入部した勝山藩主の三浦明次が、城山の麓に藩庁を構え、山上でも城郭整備を進めようとしました。しかし、10代、約100年を経て、整備は未完のまま明治時代を迎え、再び廃城となりました。
高田城は、北側の如意山(にょいやま、城山とも 312メートル)と、南側の勝山(かつやま、太鼓山とも 260メートル)からなり、あわせて「大総山(おおつぶさやま)城」とも呼ばれていました。山上では山の尾根を削って平坦地とした多数の「曲輪(くるわ)」や、敵の侵入を防ぐ「堀切(ほりきり)」などが造られ、守りを固めていたようすがよく分かります。
この説明板は、南北二つの山すなわち城山と太鼓山の間に位置する須井乢(水乢)にある。中世、近世ともに三浦氏の居城だったと分かる。中世三浦氏については以前の記事「東国の武将、西国で栄える(三浦氏・先)」で、近世三浦氏については「鳩山総理の殿様(三浦氏・後)」で紹介した。
三浦氏の系譜についてはそこで紹介したので繰り返さない。要は義村の子孫にあたるのは近世三浦氏のほうである。さすがの生きる力だ。
近世の調練場だったというグラウンドに沿って歩いていると、「史跡 城山及び太鼓山」「昭和四十二年四月六日 指定」と刻まれた標柱がある。どうやら旧勝山町時代は、そのような史跡の名称だったらしい。説明板には次のように記されている。
城山および太鼓山
延文五年(一三六〇)関東の名族三浦貞宗が高田の庄を賜わり高田城を築いた。
戦国の世となり一三代二一七年にして亡んだ。明和元年(一七六四)三浦明次が真島郡二万三千石の領主となり入府、城を補修出丸に太鼓櫓を設け城名を勝山城と改称した。
勝山町教育委員会
二つの説明板で築城年と築城者が異なっている。延文五年(1360)の三浦貞宗なのか、文亀元年(1501)の三浦貞連なのか。地方史の基本文献『作陽誌』によれば貞宗なのだが、より古く信頼のおける史料「作州高田城主覚書」(下岩牧家文書/『久世町史』資料編第一巻)によれば貞連が妥当なようだ。筆者の牧氏は三浦氏の旧臣である。
関東の名族三浦氏で、高田荘を手に入れたかやって来たのが貞宗で、築城したのが貞連なのかもしれない。いずれにしろ中世三浦氏は山本耕史の義村の流れではない。中世三浦氏が毛利氏の圧迫で城を退去してから二百年ほど後に、近世三浦氏が入封する。義村の子孫は作州に生き残ったのである。
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