大好評だった大河『鎌倉殿の13人』の第4話に、歯が抜けてフガフガしゃべる爺さんが登場した。頼朝が挙兵すると聞いて駆け付けた老将、佐々木秀義(康すおん)である。源平合戦で活躍する佐々木四兄弟の父でもある。
四兄弟のうち三男盛綱については「地味な指揮官と勇敢な部下(藤戸・上)」で、四男高綱については「今も昔も先陣争い」でレポートした。嫡男定綱の子に広綱と信綱がいたが、承久の乱においては広綱は上皇方に、信綱は鎌倉方に属して明暗を分けた。
その信綱の子孫が六角氏と京極氏であり、秀吉の時代に六角承禎は没落し、京極高次・高知兄弟は出世した。関ヶ原の戦いの後、高次は大津城籠城戦の功により若狭小浜を与えられ、高知は岐阜城攻めなどの功により丹後宮津を与えられた。
京極氏は近世大名の道を歩んで4家が明治に至る。高次流の宗家は雲州松江、播州龍野を経て、讃州丸亀に落ち着いた。のち、丸亀藩から多度津藩が分封された。
宮津藩は元和八年(1622)に高知が亡くなると、本藩と田辺藩、峰山藩に分封された。後に本藩は改易され、田辺藩は但馬豊岡に転封となり、峰山藩はそのまま続いた。京極氏は鎌倉幕府草創期から長く栄えた名族なのである。
豊岡市三坂に「京極家廟」がある。豊岡藩主家代々の霊を祭る廟所である。
ここには藩主家の菩提寺、瑞泰寺の跡である。あまり手入れされておらず、古色蒼然とした印象を受ける。案内板には次のように記されている。
墓所御案内
瑞泰寺跡と藩主京極家墓所
瑞泰寺は豊岡藩主京極家が開基した菩提寺。藩主京極家の墓所と廟がある。
豊岡藩主京極家は寛文八年(一六六八年)丹後・田辺(舞鶴)から但馬・豊岡に移封(初期知行三万五千石)五代以後一万五千石。二百四年間続いた。妻子は江戸屋敷詰。九代高厚氏は明治二年藩知事、同四年豊岡県知事となる。
豊岡藩家老石束家墓所
(中略)
三坂区 三坂高年クラブ 大石吉之進墓所保存会
京極高知の没後に三分された領地のうち田辺藩を預かったのは高三(たかみつ)で、その後、高直、高盛と続き、寛文八年(1668)に但州豊岡に移封となる。高盛以後は、高住、高栄、高寛、高永、高品、高有、高行、高厚と続いた。4代の高寛(たかのり)は5歳で相続し10歳で亡くなったので無嗣断絶扱いとなり、7歳の弟高永に減知のうえ相続が認められた。
たくさんの墓碑や燈籠の中に「従三位勲四等子爵京極高厚公記念碑」がある。裏面には「高厚公遺髪遺歯遺爪埋瘞處 大正四年十二月二十七日 旧豊岡藩士建之」とあるから、ずいぶんと慕われた殿様だったのだろう。
高厚公は倒幕挙兵事件、生野の変に藩兵を出して志士、平野國臣を捕縛した。「明治維新の魁」とも評される義挙を妨害したかに見えるが、地域の安全・安心を保障する権力者としては極めて常識的な対応だ。
廃藩置県直後には豊岡県知事を務め、華族制度では子爵を授けられた。明治三十年(1897)からは7年間、貴族院議員を務めている。帝国議会会議録検索システムで検索すると、読会の省略など審議の手続きに関することに「賛成」と発言していることが確認できる。
記念碑は訪れる人もなく寂寥感が漂うが、孫は京極杞陽という高浜虚子門下の俳人、曾孫の高晴は靖国神社の第10代宮司である。フガフガ爺さんが頼朝の挙兵に駆け付けてから800年以上の時が経った。
大河『鎌倉殿の13人』第47回で、京都守護・伊賀光季の屋敷を官軍が襲撃し、承久の乱の火蓋が切られた。この屋敷は京極高辻にあり、光季討伐後に上皇方の佐々木広綱に与えられたが、広綱は弟で鎌倉方の信綱に処刑された。屋敷は信綱へ、そして子の氏信へと受け継がれたと考えられる。その後裔は京極氏と名乗るようになった。
鎌倉幕府内部の権力闘争、南北朝の争い、戦国の世に天下分け目の関ヶ原、そして封建社会の終焉。当時の武士の後裔でどれほどの者が歴史に名を残したであろうか。京極一族は的確な判断といくつかの幸運によって現代に至る。京都市に下京区寺町通高辻下る京極町という地名があるが、そのあたりが発祥の地だろう。かつては平安京の東の果てであったという。
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