リーダーとして組織を統率するのは簡単なことではない。民進党の前原さんは、先に離党した細野さんの後を追い「名を捨てて実を取る」と希望への合流を決断したものの、これが大英断だったのか大誤算だったのか、近いうちに明らかになるだろう。
源頼朝の弟範頼(のりより)は源平合戦の大将の一人だが、関心を持つ人は少ない。義経においしいところを全部持っていかれているからだ。タッキー主演の大河『義経』では、石原良純が温厚で人のよさそうな範頼を演じていた。しかし血筋と人のよさだけで、大将が務まりはしない。
今回から三回に分けて、範頼が指導した合戦の一つ「藤戸の戦い」の史跡を紹介する。範頼はここでも部下においしいところを持っていかれている。
倉敷市羽島の法輪寺に「源氏本陣跡」の石碑が建てられている。
平家では寿永三年、源氏方にとっては治承八年の2月7日、一ノ谷の戦いがあった。敗れた平家は西国に落ちたが、瀬戸内の制海権を保持したまま、再起をうかがっていた。
いっぽう、源氏方は平家包囲網を構築するべく九州を押えようとしたが、補給路を断たれるなど反撃を受けていた。そこで範頼は、まずは瀬戸内に確固たる拠点を築くこととし、備前児島を攻撃目標に選んだのである。
今は備前児島が島だったことを想像しにくいが、ネット地図を航空写真にすると緑の島が浮かび上がる。範頼は備前児島に向かい合う加須山丘陵に本陣を置き、すぐ南側の高坪山にも兵を配置した。
倉敷市有城(あるき)に「蘇良(そら)井戸」がある。
背後の山が高坪山であり、井戸は今も水を湛えている。源氏方が利用したと伝えられる。水源の確保は遠征軍にとって不可欠だ。この点、範頼は指揮官としてぬかりない。
だが、源氏方には船がなく、挑発してくる平家方を指呼の間に見ながら、攻めあぐねていた。この膠着状態は、範頼配下の優秀な武将によって破られるのである。
倉敷市有城に「乗り出し岩」がある。奥には「佐々木盛綱鎮魂碑」と刻まれた石碑がある。
いよいよ決戦の始まりである。詳しいことは説明板に教えてもらおう。
この沈滞した空気をうち破ったのが佐々木盛綱であった。彼は浦人から対岸に通じる一条の浅瀬を教えられた。勇躍波浪凌ぐ寒中をものともせず、この岩鼻から馬おどらせ乗り出し、一気に海中を押し渡り先陣の偉功をたて、平氏を屋島へと敗走させた。
盛綱が海中を進む姿は銅像になっている。
倉敷市藤戸町藤戸と藤戸町天城(あまき)を結んで倉敷川に「盛綱橋」が架かり、「佐々木盛綱像」がある。制作は、金属造形作家の鬼頭正信氏である。
橋の上にある銅像は珍しいが、ここはかつて海峡だった。ただし、盛綱が渡ったのはこの場所ではない。
倉敷市粒江(つぶえ)に「鞭木(むちき)跡」がある。
騎馬像の盛綱も鞭を手にして馬を進めている。何かいわれがありそうだ。『藤戸町誌』を読んでみよう。
伝説によれば、盛綱が先陣のとき持っていた鞭を、この高洲に突きさしておいたところ、この鞭から芽を出して大木になったので、この地を鞭木と称えるに至ったという。
盛綱のさしておいた鞭は熊柳の木と伝えられているが、この木の枯れたあとに椋と榎の木が生じて大木となった。その中榎は貞享四年の大風に吹折られて枯れ、椋もその後文政年中の大風で倒れた。
鞭が芽吹いて木になったとは杖立て伝説の一つだが、荒唐無稽な話ではなく、盛綱が押し渡った浅瀬上に位置するという。ここまで来れば、目指す児島はもう少しだ。海中を進む盛綱を見つけた範頼とその部下の様子を、『平家物語』は次のように描いている。
大将軍参河守、「あれ制せよ、留めよ」と宣へば、土肥次郎実平、鞭鐙を合せて追付て、「如何に佐々木殿、物の着て狂ひ給ふか。大将軍の許されもなきに、狼藉也。留まり給へ。」といひけれども…
指示もしていないのに部下が勝手に判断し行動している。組織としての体をなしていないが、結果的には盛綱の先駆けにより源氏方の勝利となった。功名は盛綱にあるものの、すべての戦闘の責任は指揮官である範頼が負い、栄誉もまた範頼に与えられよう。
さて現今の政治情勢は、細野さんが先駆けで、前原さんが本隊を動かした大将のように見える。しかし、小池総大将が兵すべての合流を拒否しているので、枝野参謀を中心に保守とは一線を画すリベラル部隊が創設されそうだ。新しい流れをつくった功名や大局的に判断したとする栄誉は、誰に与えられるのか。選挙はまさに合戦である。
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