まだ『鎌倉殿』にこだわっているので話を始めるが、伊賀の方(のえ、菊池凛子演)は夫の義時に毒を盛った。んなわけねーだろと片付けられないのは、藤原定家『明月記』に記録されているからだ。安貞元年(1227)4月11日条には、承久の乱に与して潜伏後に捕縛された僧、尊長の言葉がある。
只早頭をきれ、若不然ば又義時か妻が義時にくれ遣さむ薬されこるてくはせて早ころせ
「義時の妻が義時に盛った毒で早く殺せ」同時代の重要な証言であるが、そんな噂話が広まっていたというのが真相だろう。本日は伊賀の方の実家、伊賀一族の末裔の城を訪ねたのでレポートする。
岡山県加賀郡吉備中央町下加茂に「鍋谷城跡」がある。
主郭南側の尾根を二本の堀切で分断している。いきなり途切れる山道と立ちはだかる急斜面に、来襲する敵の足は確実に止まるだろう。斜面の向こうには広々とした平坦面が広がる。
主郭には櫓台のような土壇もある。しっかりした造りからは、城主の威勢を偲ぶことができよう。『吉備温故秘録』(寛政年間)巻之三十七「城趾」上「津高郡」には、次のように記されている。
鍋谷城 下加茂村の北
伊加修理城。松田の麾下なり。文明の頃の人なり。福岡合戦に松田に従ひ行きて功名あり。伊賀伊賀(勢)守も当城主なり。修理が子か。家賀左衛門尉が先祖か、未詳。其後河原備後守・河原新太郎継て、当城に居たるといふ。河原新太郎は前に記す如く、長船越中守を殺し、越中守が家来、河原兄弟を切殺し、河原の家断絶、当城も其時破城すといふ。
また、『東備郡村志』(天保年間)第七巻津高郡「長田荘」下加茂村には、次のように記されている。
▲大手城址。河原備後守・同新太郎古城址也。按に石原新太郎ならんか。
▲鍋谷城址。文明年中、河原大和、又伊賀修理介、其後河原備後守此城に居る。備後守は伊賀が臣河原源左衛門が父なり。
大手城は鍋谷城主郭から南東に伸びる尾根先にある平坦地で、鍋谷城の出丸のような位置付けである。二つの城は一体と見てよいだろう。『吉備温故秘録』と『東備郡村志』に城主として登場するのは、伊賀氏と河原氏である。主従関係は松田氏-伊賀氏-河原氏となる。備前半国の雄松田氏は金川城を本拠とする。これを西方で守るのが伊賀氏の虎倉城、河原氏の鍋谷城だったのだろう。
『吉備温故秘録』には、河原新太郎なる者が長船越中守を殺した話があるが、『東備郡村志』では、同じ新太郎でも石原新太郎ではとしている。虎倉城を紹介した記事「官兵衛が受け取りにきた城」のうち、本日の記事に関係して次の2点に注目したい。
一つは「虎倉物語(虎倉村又兵衛)によれば、伊賀伊賀守が、赤坂郡鍋谷の城から移ったとあるが、それは備前軍記等から文明十二年(一四八〇)ごろと推定される。」という説明文。赤坂郡鍋谷は津高郡の誤りだろう。鍋谷城は虎倉城主伊賀氏の旧城だったのだ。
もうひとつは、「天正十六年(一五八八)長船・石原内紛焼亡」「長船越中守の居城となりましたが、一五八八(天正一六)年、一族の争いで城は焼けてしまいました。」という説明文。宇喜多氏配下の長船越中守が城主となったが一族の石原氏との内紛により城が焼亡したのである。
どうやら石原新太郎は河原新太郎と混同されているようだ。虎倉城主伊賀久隆が急死すると家臣は離散したというから、河原氏も帰農するなど、戦国の舞台から去ったのだろう。
岡山市北区御津紙工(みつしとり)にある市指定文化財「河原邸」は、鍋谷城の城主であった河原直次の弟秀光を祖とする旧家だという。また、『平家物語』に登場する河原兄弟(太郎高直、次郎盛直)が属する武蔵七党の一つ私市(きさい)党の後流だとも伝えられている。
伊賀氏にしろ河原氏にしろ、長き歴史を誇る名族である。今回訪れた鍋谷城は案内表示も何もなく、登城口さえ見つけにくいくらいだったが、城主へのリスペクトを込めて史跡指定してもよいのではないだろうか。