2001年に起きた同時多発テロの映像は衝撃的だったが、それに先立つバーミヤン大仏の破壊にも大きなショックを受けた。どちらも巨大なものが瓦解する映像だったが、それは単に物理的な崩壊に止まらず、人々の精神的な支柱がなぎ倒されるように感じたものだ。
兵庫県佐用郡佐用町円應寺(えんのうじ)に「後醍醐天皇駐蹕之碑」と「後醍醐天皇御駐蹕伝説地碑」があった。
駐蹕之碑はこの史跡のメインとなる記念碑で、「故有栖川宮殿下の御染筆」と大正十五年発行『佐用郡誌』が記しているから、有栖川宮威仁親王であろう。ところが自然石の碑は台座の上になく、二つに分かれて台座脇に置かれている。
駐蹕伝説地碑は写真左に縁石のように写るもので、横倒しになり二つに折れている。
二つの記念碑が破損している理由は知らないが、大切にしていたものが傷つけられたような思いに駆られる。おそらくは人為的なものではなく、地震か台風により倒壊したのだろう。
左手に副碑がある。碑文を記録しておこう。
碑文
元弘二年 鳳駕西遷之次
三月十五日駐蹕于此距今実
五百七十有一年也此地有志
者福地常太郎等数輩恐遺迹
埋没相謀建石以永使衆庶有
所矜式 明治三十五年一月
正三位勲一等男爵大鳥圭介選
高田忠周書
撰文は蝦夷共和国の陸軍奉行、大鳥圭介である。建碑当時の肩書は大日本帝国の枢密顧問官であった。書の高田忠周(ただちか)は漢字研究の泰斗ともいうべき人物だ。碑文の内容を意訳しよう。
元弘二年(1332)、後醍醐天皇は隠岐配流の途次、三月十五日にここにお泊りになった。今を去ること実に五百七十一年。地元有志の福地常太郎ら数人は史跡が埋没するのを恐れ、相談して記念碑を建立した。末永く人々の手本となる行いである。
後醍醐帝は3月15日に佐用に宿泊されたのだという。根拠は何だろうか。『太平記』巻第四「先帝遷幸事」では、帝一行が3月7日に京(六波羅)を離れ隠岐へと向かい、13日目(つまり3月19日)に出雲の美保湊(松江市)、風待ちの後26日目(つまり4月2日)に隠岐に着いたことが記されている。
その間に通過した地名は、七条、東洞院(以上、京都市下京区)、桜井(大阪府三島郡島本町)、湊川(神戸市兵庫区)、須磨浦(神戸市須磨区)と示され、次のように続いている。
明石の浦の朝霧に遠くなり行く淡路潟、寄せ来る浪も高砂の、尾上の松に吹く嵐、跡に幾重の山川を、杉坂越えて美作や、久米の佐羅山さら/\に、今はあるべき時ならぬに、雲間の山に雪見えて、遥かに遠き峯あり。
道行き文の心地よいリズムとともに、明石浦(明石市)、高砂(高砂市)、尾上(加古川市)、杉坂(岡山・兵庫県境)、久米の佐良山(津山市)を経て、伯耆大山(鳥取県西伯郡大山町)が見える場所まで一気に進んでいる。他に手掛かりとなるのは次の段「備後三郎高徳事附呉越軍事」で、帝を待つ児島高徳が翻弄される姿である。
臨幸余りに遅かりければ、人を走らかしてこれを見するに、警固の武士、山陽道を経ず、播磨の今宿より山陰道に懸り、遷幸を成し奉りける間、高徳が支度相違してけり。さらば美作の杉坂こそ究竟の深山なれ。こゝにて待ち奉らんとて、三石の山より直違に、道もなき山の雲を凌ぎて杉坂へ著きたりければ、主上はや院庄へ入らせ給ひぬ。
播磨の今宿(姫路市)から、播美国境の杉坂峠を経て、院庄(津山市)へと移動したという。出雲街道を下っていることが分かるが、これ以上の情報は何もない。
そこで頼りになるのは、歴史物語『増鏡』である。第十六「久米のさら山」でも、帝一行が3月7日に都(六波羅)を出て隠岐へと向かったことが記されている。記載された日付と地名を列挙してみよう。
七日
七条、大宮、東寺、鳥羽殿、淀のわたり
八日
昆陽野の宿、武庫川、神崎、難波、住吉、広田の宮のわたり、あし屋の松原、すゞめの松、布引の瀧、生田の里、湊川の宿、和田岬、刈藻川、須磨の関、塩屋、垂水、大くら谷、人丸の塚、明石の浦、野中の清水、ふたみの浦、高砂の松
十二日
加古川の宿
十七日
美作の国
廿一日
雲清寺、久米のさら山、逢坂、三日月の中山
四月一日
出雲の国やすきの津
ルートは出雲街道で間違いなさそうだが、「佐用」関連の地名も「三月十五日」という日付も登場しない。ならば、記念碑は何を根拠としているのだろうか。大正十五年発行『佐用郡誌』には、津山藩の歴史家矢吹正則の説が紹介されている。
同月十二日播磨加古川に御泊姫路の西今宿より山陰道線に進ませ給ひ、同月十三、十四の両日揖保郡曽我井村御泊、揖西・佐用の境なる逢坂を越えさせ給ひ三日月を過ぎさせ給ふ。時に
つたへきく昔かたりそうかりけるそのへふりぬる三日月の森
と詠み給ひ、東新宿、徳久等を経て釜須坂を越えさせ給ひ、同月十五日円応寺に御一泊。翌十六日長尾、西山、山田より幕山村を経させ国境杉坂を越えさせられ美作の国和気の庄に御宿泊、同十七日和気山の麓を経て海内原にて津山川を越えさせられ、種村を通御し給ふ。途上久米の佐良を御覧ありての御製
聞き於きし久米の佐良山越えゆかんみちとはかねておもひやはせし
夫より佐良庄嵯峨山の麓に出させ津山川上流の清流を渡らせられ、院の庄の行在所に着御し給ふ。
『増鏡』が記す「十二日に、加古川の宿といふ所におはします程に」を起点とし、「十七日、美作の国におはしまし着きぬ」を終点として、その間の行程を推測したようだ。「美作の国」は守護所である院庄と解釈している。
『増鏡』で二十一日以降に出てくる「久米のさら山」「逢坂」「三日月」も十七日までの行程にうまく取り入れている。「久米のさら山」の位置に違和感はない。「逢坂」は兵庫県内の揖西(いっさい)郡と佐用郡の境だというが、通説では岡山県真庭市内である。「三日月」は兵庫県の旧三日月町を指しているが、通説では岡山県真庭郡新庄村にある。
こうしてみると、3月15日に円応寺にお泊りになったのは推測に過ぎず、史実は不明と言わざるを得ない。しかし、記念碑には有栖川宮家や大鳥圭介という偉人が関わっており、むしろ、こちらが重要である。二つに折れていても、我が国の近代史を牽引した南朝ブームの記念碑であることに間違いない。
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