増田長盛といえば豊臣政権五奉行の一人、関ヶ原で西軍についたものの命だけは許されたが、その後の大坂の陣で子の盛次が大坂方についたため自刃させられた。いっぽう本日の主人公、伊東長実は大坂の陣で大坂方についていたものの、許されて領地まで与えられた。関ヶ原で徳川方に内通した功が認められたのだという。人生は因果応報と言えようか塞翁が馬と言えようか。
倉敷市玉島服部と玉島陶の境に「君が岩」がある。
近くに岡山県道54号倉敷美袋線が通過しているが、写真左の道路がその旧道、右側の道が旧玉島往来である。この道は、玉島湊から服部、箭田、新本を経て美袋で松山往来に合流する。
玉島往来が通過する服部や箭田、新本のあたりに領地をもらったのが、伊東長実公である。大河『鎌倉殿の13人』で八重(新垣結衣)の父親であった伊東祐親(浅野和之)の子孫だという。ちなみに日向飫肥藩の伊東氏は祐親を狙った工藤祐経の子孫とされる。
さて、長実公の領地は岡田藩と呼ばれたが、その陣屋は「小大名の底力」でレポートした。ただし、長実公お国入り当初の陣屋は服部村の谷本にあった。服部村の入口に位置する君が岩には、どのような謂れがあるのだろうか。碑文を読んでみよう。
下道郡岡田藩(真備町岡田)の初代藩主伊東丹後守長実公は入国に当たり元和二年(一六一六)三月二十三日早朝浅口郡亀山村(玉島富田)の港に上陸された。この時谷本(真備町服部)に岡田藩最初の陣屋を築いて藩主の到着を待ちわびていた服部村庄屋西与左右衛門邑宣(後に水川与左右衛門長宣)は馬もかごも無かったので陣屋まで殿様を背負い藩主入国の行列に加わった。途中この岩の上で休息された殿様は「ここは善き郷(さと)じゃ」と喜ばれ(地名善郷今の前後のおこり)村人は親愛の情をこめてこの岩を君が岩と呼び今に至るまで大切に守られている。
吉備郡史
長実公は今の倉敷市玉島八島にあった亀山湊から上陸した。服部村の庄屋与左右衛門は村人とともに湊にお迎えに上がったのだが、ここには馬もかごもない。(仕方ない…)「殿、私の背にお乗りくださいませ」与左右衛門は長実公を背負って谷本陣屋にお連れした。与左右衛門20歳のことだという。
君が岩で休まれた時、長実公が「ここは善き郷じゃ」と喜んだことから、善郷(ぜんごう)が前後という地名になったと伝えられている。「よきさと」と発した言葉が漢字に変換され「ぜんごう」と読み替えられ、「ぜんご」に変化した後に別の漢字に変換されるとは。
君が岩の次の集落が前後、そして滝岩、谷本と続く。亀山湊から谷本陣屋まで6km以上はありそうだ。背負い通した与左右衛門は立派だが、背中にしがみついていた殿様もしんどかったのではないか。殿様をもてなそうと張り切る若者に、手柄を立てさせようとしたのかもしれない。
「与左右衛門、その節は大儀であった。これからは水川の姓を名乗るがよい。」後に長実公に呼び出された与左右衛門は、新しい姓を与えられ、姓を西から水川へと改めたという。今では人事考課がインセンティブだが、この時代は氏姓の授与にその意味合いがあった。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。