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「その昔、うちには城があった。」と言う人がいた。城主だったのーっ!?と驚いたことを思い出し、このたび、その城を訪ねることにした。天守閣や御殿があるわけでなく、木々と古墳ばかりの道をひたすら進む。堅固な山城でアクセスは容易でないが、高梁川の雄大な流れと総社市街から吉備路方面が一望できる。この城を持っていたとは!
総社市秦に「荒平山(あらひらやま)城跡」がある。ここは尾根先に位置する一ノ壇である。主郭の二ノ壇に建てられた休憩所が見える。
四等三角点「茶臼岳」もあり、標高は190.7mである。東側に開けた見晴らしのよさはトレッキングには最高だが、城主としては責任重大だったろう。
尾根が続く城の西側には大きな堀切があり、外敵の侵入を防いでいる。
籠城に備えて、北側には石組の井戸が設けられている。休憩所に戻って説明板を読んでみよう。
荒平山城由緒
荒平山城は永享年間(一四二九~一四四〇)に地元の豪族、川西氏によって築城されたといわれる。
平時の居館は山裾にあり、戦時の山城と対になっていた。城は尾根上にあり、全長は一五〇メートルにおよぶ。各々の壇には石を使わず土盛のみで整形しており、西の「尼子谷」に井戸がある。
天正年間(一五七三~一五八五)の備中兵乱期には川西氏が三村氏に味方したため、天正三年(一五七五)に毛利方の小早川隆景に攻められた。城兵はよく奮戦したが、城主川西之秀は城兵の助命を条件に降伏、開城し、讃岐へ落ちのびた。これ以降、廃城となったと思われる。
平成三十年三月
秦歴史遺産保存協議会
天正三年(1575)1月には、西方の鬼ノ身城が毛利勢の総攻撃により落城している。荒平山城も運命を共にしたのだろう。中島元行『中国兵乱記』二「同国荒平山城主川西三郎左右衛門事」には、次のように記されている。
天正三年正月十六日に、芸州の諸大将南河西へ陣所を被替、上野孫次郎実親居城、山田村鬼身城遠巻す。小早川隆景は下原郷伊世部山の構へ入城、毛利元清は鬼邑山へ入城仕り給ふ。宍戸備前守は羽入道山に構陣城、其外先手は新本村・水内村・藤原村・大野原・御崎・山辺郷・野山手等に陣宿す。箕腰山の砦を備後勢攻むれば、本城へ莟(つぼ)みける。同十七日には御本陣の無御下知、近城なれば秦村荒平山へ押寄す。城主川西三郎左右衛門之秀は三村元親親類也。中島大炊助も一族故、将軍に御勤仕候へと取扱申内に芸州勢山根迄焼働きける。此山東北川を帯にし、南も嶮岨にて麓に大川巻き無双の要害也。山の峯に構砦石木を落掛け、東西の坂口へ突て出づれば、数百人を川へ追はしめ討捕ければ芸州勢跡を見ず逃げける。誰が褒美もなきに数輩討れける。隆景此由を聞給ひ、数ならぬ山といへ共非可侮と中島元行に被仰付、居城領地無相可被遣候間、芸州方仕候様に取扱けれども、数代三村親類なれば御身方仕候事非本意候。籠城の諸勢御助候はゞ、四国へ罷退べくと御約束にて、郷民に被仰付備前国児島へ被送ければ、讃州の由佐左京方へ落行き、三村親類軍慮の程を談じける。
小早川隆景を主将とする毛利勢は頑強に抵抗する鬼ノ身城を包囲した。隆景は伊與部山の夕部山城、毛利元清は木村山城、宍戸隆家は馬入道山城を陣所とした。最初に木村山城の北にある蘘越(みのこし)城を攻めたが、三村勢は鬼ノ身城に退いた。そこで、毛利勢は荒平山城に押し寄せたが、険しい山城のため寄手に大きな被害が出た。城主の川西之秀は三村元親の親類だが、毛利方の中島元行も一族だった。「居城領地ともに安堵いたすぞ」と中島が働きかけたが、「私は数代にわたって三村家と縁があるため、毛利方にお味方することは本意ではない。籠城する兵を助けてもらえるなら四国へ退くこととしよう」と言うので児島へと追放すると、讃岐の由佐秀盛のもとへ落ち延びた。三村家とのつながりがあったのであろう。
調略によって開城させることができたものの、力尽くでは落とすことのできなかった荒平山城。「無双の要害」と敵方から評価されたことは、備中各地に峻険な城を築いた三村氏の本領発揮ということになろうか。戦国の世に誇るべき名城である。
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