ウクライナ紛争に耳目が集まっている間に、未承認国家ナゴルノ・カラバフ共和国がなくなってしまった。国名がアルツァフ共和国に変更されていたことさえ、今回初めて知った。
そもそも、どんな争いかも分かっていなかったが、今回の報道で理解できた。キリスト教アルメニア正教のアルメニアとイスラム教シーア派のアゼルバイジャンとの対立である。アゼルバイジャンの中にアルメニア人が多く住むナゴルノ・カラバフ自治州があり、ソ連崩壊を機に共和国として独立した。
ナゴルノ・カラバフ共和国を支持するアルメニアは、アゼルバイジャンと戦争に突入、同国の一部を占領するなど、ロシアの支援を背景に優位に立っていた。おかげでナゴルノ・カラバフ共和国も独立を維持できたが、ロシアはおろかアルメニアまでも国家承認しないという幻の国だった。
エルドアン政権下のトルコが強大化してからは、ロシアがアルメニアから手を引き、アゼルバイジャンの反撃が強まっていた。そして、このたびの大規模攻撃に堪えることができず、アルツァフ共和国のシャフラマニャン大統領は先月28日、「国家は来年1月1日までに消滅」「住民は各自の判断で行動せよ」と国家解散を宣言した。まさに戦国時代である。
玉野市八浜町波知に「丸山城跡」がある。
写真では、左が児島の主峰金甲山、右が丸山城跡。丸っこくてかわいいが、城としては大丈夫?と心配してしまう。登ってみよう。
四等三角点「小丸山」がある。標高41.37mである。頂部は平坦だが、東側を除いて周囲はけっこう急斜面だ。
北東隅の土塁が明瞭に残っている。このような美しい土塁は、なかなか見ることができない。
北側には美しい横堀がある。堀の向こうには県道405号山田槌ヶ原線が通過する。おそらく古くから児島を横断する主要道だったはずだ。敵の侵入を防ぐなら、低い山でも十分その役割を果たしたのだろう。
技巧的な造りの丸山城は、文献にどのように記録されているだろうか。元文四年(1739)成立の『備陽国誌』十八之巻「古城跡」には、次のように記されている。
小丸山城 波知村。城主佐々木三郎盛綱。
佐々木盛綱は源平合戦藤戸の戦いのヒーローである。なぜこのような場所に城があるのか。寛政から享和(1800年前後)にかけて成立した『吉備温故秘録』巻之三十九城趾下二児島郡には、次のように記されている。
小丸山城 波知村。
佐々木三郎盛綱居城といひ伝ふ。未詳。
按ずるに、盛綱当郡を領せし事は、諸書に見ゆれば、盛綱が子孫当郡に住しければ、其子孫の内の者、居城せしならん。当郡中に飽浦加地を称する者多し、皆佐々木の余胤なり。
児島で佐々木盛綱とその子孫を称する武士団が活躍したが、さすがにここまで技巧的な城造りはしていないだろう。美しい横堀のある城が児島には二つある。「毛利VS織田の最前線(八浜合戦・中)」で紹介した両児山城と「最高度に発達した最末期の山城」で紹介した黒山城である。どちらも毛利氏と宇喜多氏による児島争奪戦との関連がある。丸山城(小丸山城)は両児山城に近く、同じ時期の築造と考えてよいだろう。
天正十年(1582)の八浜合戦は宇喜多勢の大将が討死するという激しい戦闘だった。なぜこの記憶が残らず、はるか昔の佐々木盛綱ばかりが語り伝えられたのだろう。リアルで悲惨な戦争よりも、伝説的でロマンに満ちた軍物語が好まれたのだろうか。
ウクライナ紛争の影で一つの未承認国家が消滅した。アゼルバイジャンの中にあったアルメニア人の国である。国家解散に伴い各自の判断による行動が命じられ、12万人のアルメニア人が脱出しているという。
今が歴史となったとき、「アルツァフ共和国」はどのように語られるのだろうか。32年間事実上存在した国家として記録されるのか、紙幣に描かれたダディバンク修道院やフダフェリン橋(the 11-span bridge)という誇りある歴史遺産とともに幻の国として夢のように語られるのか、それとも、世界中から承認されなかったがために記録にも記憶にも残らないのか。
はるか昔のヒーローの名とともに語られる丸山城では、技巧的な遺構を今も見ることができる。アルツァフ共和国の痕跡はアゼルバイジャン国内に何か残るのだろうか。
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