山梨県は富士山のオーバーツーリズム対策として、登山鉄道の敷設に動き出している。既存の道路に軌道を敷設し、自動車を排除することで排ガスによる環境負荷を軽減するとともに、交通手段を完全予約制の鉄道のみとして来訪者数を抑制する。発想はよいのだが、富裕層しか楽しめなくなるのでは、という懸念も指摘されている。
本日は、誰もが気軽に楽しむことができるご当地富士の登山レポートをお届けしよう。
岡山県和気郡和気町和気と大田原の境にある「和気富士」に「曽根城跡」がある。北曽根城とも名黒山城ともいう。町指定の史跡で文化財としては「和気北曽根城跡」と呼ばれる。
頂上には四等三角点、その名も「和気富士」がある。地理院地図にも「和気富士」と明記され、単なる愛称ではないことが分かる。標高は172.36mで、数字がどこか3776mに似ている。とにかく公式なご当地富士なのだ。
青空につられてゆっくり登ると、主郭手前に説明板がある。読んでみよう。
北曽根城跡
この城は、名黒山城とも呼ばれ、戦国末期に備前・美作・西播に権勢を誇った浦上宗景の家臣、明石景行が開いた城である。
その後、弟宣行が跡を継ぎ、宇喜多氏の反乱に呼応して浦上氏を滅ぼし、四千五百石を与えられたが朝鮮戦役で戦死、遺子久蔵も関ヶ原の戦で宇喜多氏に従って西軍につき敗北、この城は廃城となった。
現在、この山は通称「和気富士」と呼ばれ、つつじの名所として親しまれている。
昭和五十九年三月 和気町
明石景行と宣行の兄弟が城主で、宇喜多氏に従っていた。宣行は朝鮮で陣没し、その子久蔵も関ヶ原で敗北、明石氏とともに城の歴史も終わったという。備前の歴史の基本文献『吉備温故秘録』巻之三十八城趾中二和気郡「名黒山城」には、次のように記されている。
明石大和守景行居城、此大和は明石飛騨守行雄が長男にて、源三郎口口が兄なり。宗景天神山へ入城の時、景行も当城を攻め造り、宗景に臣とし仕へけるが、実子なくて弟を養ふて子とし、家を継しむ。これを口口口口口明石右近といふ。後には直家につかへて、当城にそのまゝ居て、近辺四千五百石を領し、度々軍功あり。朝鮮征伐のとき秀家卿にしたがひ渡海せしが、文禄二年正月、深手を負ひけるが、一両日過て死せり。共幼男久蔵に、右近が禄を其儘給るといふ事を、明石久兵衛(二千石)小瀬中務(千石)より、備前の留守へ言送りける。此時右近が伯父明石宗納より、御受の返答せし書案も今も残れり。此宗納は当郡働村の城主、明石飛騨守行雄弟にして、同村に居して爰にて死す。右近が子久蔵も後右近と変名して、宇喜多に仕へしが、関原乱後浪人して方々漂泊し、後大阪へ行、天和元年大阪籠城の人数に加はりけるが、落城後右近が行衛しれずといふ。
説明板と『吉備温故秘録』とでは名前が少々異なるものの、その事績に齟齬はない。明石氏で著名なのは明石掃部頭(全登)だが、曽根城の武将とどのような関係にあるのだろうか。手元に『岡山県歴史人物事典』があるので、三人を調べてみよう。
明石景行は、『秘録』では明石行雄の長男だが、『事典』では明石全登の次子である。明石宣行は、『事典』では明石景行の子だが、説明板では景行の弟である。久蔵は、説明板では明石宣行の子だが、『秘録』では明石右近の子であり、『事典』では宣行の通称である。右近、宣行、久蔵は別人なのか同一人物なのか。ということで、まったく訳が分からない。
要するに曽根城は、関ヶ原まで宇喜多氏を支えた明石氏の城であり、廃城後の城主は明石掃部とともに大坂の陣を戦ったのだろう。明石氏を偲びながら、北側の尾根を進むこととしよう。
今夏「和文字焼きまつり」が4年ぶりに開催された。暗闇部浮かぶ幻想的な文字。京都五山送り火に倣って昭和62年に始められた。
その現場がここだ。全部で89基の火床があるという。さあ、尾根に戻って、どんどん進もう。
見よ、この連峰。和気アルプスである。縦走の達成感を満喫しよう。
和気町大田原と泉の境にある竜王山に、四等三角点「竜王山」標高222.76mがある。
ここから尾根を下って由加神社まで出るとルート終了である。歴史と自然の両方を味わうことができるのは、和気富士も本物の富士山も同じ。加えて和気富士はアルプス縦走を楽しむことができる。この高さでこの達成感。しかもオーバーツーリズムとは無縁。登山鉄道の検討は全く不要である。
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