鼻は人体の一部ではあるが、顔から突き出た鼻のように、出っ張った地形も「鼻」と呼ばれる。有名なのは薩摩半島最南端の長崎鼻だろう。美しい岬で、観光スポットとして人気のようだ。本日紹介する鼻は、岬ではなく山である。鼻のようないい形をしており、鼻高山と呼ばれている。
倉敷市串田に「鼻高山城跡」がある。
周囲が急斜面で守りが堅いことが見て取れる。頑張って登ってみよう。
主郭はとても広いが、構造は比較的単純である。この山城の特徴は、この眺望だろう。
郷内川沿いの平地の向こうには稲荷山、さらに遠く怒塚山も見える。北西方面から児島を窺う敵の動向をいち早くつかむことができる。地域防衛の成否を左右する重要な城と言えるだろう。江戸中期の『備陽国誌』十八之巻児島郡「古城跡」の項に、次のように紹介されている。
鼻高山城 串田村
元亀三年毛利家より是を築き、上野源次郎兼次、後に沖左衛門尉兼忠是を守る。天正十七年落城といふ。
二人の城主について、原三正『郷内地区の文化財』(児島地区老人クラブ連合会郷内支部)では、次のように記されている。
上野源次郎兼次(ウエノゲンジロウカネツグ)
串田の鼻高山城主。一説に源九郎と言う。毛利家の武将で元亀三(一五七一)年頃に在城していた人物。上野氏は今も灘崎町にある。上野隆徳の同族で毛利方となったか。(戦国時代)
沖新左衛門兼忠(オキシンザエモンカネタダ)
串田の鼻高山城主。恐らく毛利家の家臣であろう。天正年中(一五八〇ごろ)在城、天正十七(一五八九)年落城後土着した。その子孫が串田の沖氏と言われている。沖、上野の姓は熊野権現仕置職又は士官の中に見えるから、あるいはその血統の土豪でもあろうか。上野系の人物で、兼次についで城主となっているからその一族か。天正十七年は十年の誤りであろう。(安土桃山時代)
確かに天正十七年はすでに安定期であり、城をめぐる攻防戦が発生する状況ではない。落城があるとすれば秀吉の中国征伐であろう。天正十年の高松城水攻めに先立って、児島では毛利と秀吉が争奪戦を繰り広げていた。
さらにさかのぼって元亀年間。西の大友、東の浦上(宇喜多)、南の能島村上、北の尼子遺臣により毛利包囲網が形成された。この時、児島は一時期反毛利勢の支配下となったが、最終的には毛利勢が奪い返した。『備陽国誌』の「元亀三年毛利家より是を築き」は、そうした事情が背景にあるのだろう。
毛利氏が鼻高々に誇った鼻高山城も最後は落城したと伝わる。それほど秀吉軍は強かったのだろう。秀吉得意の調略が功を奏したのかもしれない。今度は秀吉が鼻を高くしたことだろう。