中国山地は近代製鉄以前、日本一の鉄生産量を誇っていたという。その中国山地の東端は、岡山県最高峰の後山とも丹波高地とも言われている。本日は後山近くにある兵庫県の鉄山を訪ねたのでレポートする。
宍粟市千種町岩野辺(いわのべ)に市指定史跡の「荒尾鉄山跡」がある。
ここは、たたらの神様である金屋子神(かなやごのかみ)降臨の地の近くだ。神話ではなく実際に製鉄が行われたのは、江戸時代の後半だという。説明板を読んでみよう。
宍粟市指定史跡 荒尾鉄山跡
所在地 宍粟市千種町岩野辺(いわのべ)字荒尾
【指定年月日】昭和五十七年三月五日
【概要】荒尾集落から川沿いを五百メートルほど登った山中に石垣が残る荒尾鉄山は高殿(たたら)、勘定場(事務所)、砂鉄・炭小屋(材料庫)、山内小屋(社宅)など、複数の建物群で構成された製鉄施設の跡である。
県史跡の天児屋(てんごや)鉄山跡に比べるとやや小規模であるが、中央を幅二メートル程の通路が貫通し、道の左右に作業の順序に合わせて施設が配置されている点が特徴的である。
荒尾鉄山の正確な操業期間は不明であるが、おおむね江戸時代中期から明治時代前期までと推定される。鉄山跡の入口には、嘉永二年(一八四九)の年期が入る地蔵菩薩の供養碑が立てられており、以下の銘がみえる。
嘉永二酉七月廿四日
大願主 大坂泉屋
曽根紀ノ国屋
発起人施主 山奉行安兵衛
人足合力 山内中
大願主の大坂泉屋は、鉱山業で財を成した住友家の分家であり、江戸時代後期には天児屋など複数の鉄山を運営していた。また、荒尾の鉄山墓には三河国(愛知県)出身者の墓標があり、鉄山関係者の幅広い交流がうかがわれる。
参考文献 鳥羽弘毅『たたらと村』ほか
非鉄金属業界大手の住友金属鉱山は、天正十八年(1590)創業という誇りある歴史を有している。江戸時代は別子銅山の経営で栄えていた。泉屋という屋号で鉱山業や金融業を中心に事業を拡大し、後の住友財閥の基礎をなした。住友宗家は現当主に至るまで代々吉左衛門を名乗っている。
この荒尾鉄山は分家の泉屋が経営しており、お地蔵さまの足もとに刻まれた屋号を確認することができる。紀年銘の嘉永二年(1849)は、下田で無断測量をするイギリス軍艦マリナー号を江川太郎左衛門が退去させた年である。同年、江川は反射炉の建造に着手している。
お地蔵さまの見守る鉄山。そこで生産された粗鉄を精錬する反射炉。そして居並ぶ大砲を背後に、外国に毅然と対応する幕府代官。すべてが順調に進んでおれば、もしかすると鎖国はもう少し長く続いたのかもしれない。
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