青の洞門に行きたいという思いは、以前の記事「菊池寛『マスク』を読んで」に書いた。「涓滴(けんてき)岩を穿(うが)つ」と言われるが、人もまた同じ。小さな努力が大きな成果へとつながるという教訓をベースに、仇討を絡めてドラマチックに仕上げた『恩讐の彼方に』の舞台である。
遠い遠いと思っていると、洞門は意外に近くにあった。
宍粟市山崎町与位に「与位の洞門」がある。市の名勝である。
確かにめったにお目にかかれない奇観で、その由来が気になる。市九郎こと了海のように罪業を償おうとする者が開削したのだろうか。いや、今年没後250年を迎えた禅海和尚のように托鉢勧進によって資金を集めたのだろうか。禅海和尚は安永三年(1774)8月24日に亡くなった。享年八十八。説明板を読んでみよう。
山崎町指定文化財
<名勝>与位の洞門
所在地 山崎町与位一番地の一
所有者 山崎町与位生産森林組合
指定年月日 昭和六十年二月十四日
この洞門をくり抜いた乢(ほき)(がけのこと、歩危)とその東にあった田井の船渡し付近は奇景として有名であったが、宍粟奥地へ向かう交通の難所でもあった。
大正十二年刊行の『宍粟郡誌』に、「田井より与位に至る途(みち)、揖保川の清流山脚を洗う処に二箇の巨巌あり。其の形頗(すこぶ)る奇なり。巌頭には老松枝を伸べて空に翻(ひるがえ)り、断崖数十尋、羊歯(しだ)岩松の類これに叢生(そうせい)し、下部は碧潭(へきたん)に臨みて倒映の景奇絶なり。もと桟橋を架して風到を添えたりしが、今は隧道を穿(うが)ちて奇いよいよ加われり。」と説明されている。
対岸から見ると、今も川に面した岩端には桟橋を差した四角い穴が残っている。しかし、桟橋は荒天の度に落ちるので、明治三六年頃に村民が二年がかりで隧道を掘った。
その後、昭和初年には荷車が通れるように広げられ、さらに昭和四三年に大型自動車が通行できるように改修され現在に至っている。
青の洞門完成以前は、岩壁を削った鎖渡の桟道が山の中腹にあったらしい。そこから墜死するのを見かねた禅海和尚が一念発起し、30年がかりで隧道を完成させた。
与位の洞門完成以前は、岩壁に沿って桟橋が架けられていたようだ。荒天で崩落するのを見かねた村民が一念発起し、2年がかりで隧道を完成させた。
与位の洞門にはドラマチックな物語が見当たらないが、誰かが言い出し、誰かが資金を工面しただろう。もしかすると反対派を説得する誰かがいたかもしれない。大きな事業を成し遂げるに紆余曲折があるのは当然だ。
もともと「奇絶」と評される絶景だった。そこに桟橋が架けられ「風致」が増した。さらにトンネルが貫通して「奇」が加わったのだという。景観破壊とは真逆の高評価である。
禅海和尚の偉業もまた同じ。奇観と呼ばれる地形が往来に適しているわけがない。そこを敢えて為す。敢為の精神で隧道を穿ったことにより、自然と人為が融合して偉観が形成された。与位の洞門にインスパイアされて青の洞門の偉観を讃え、没後250年の今ここに、禅海和尚の偉業を偲びたい。
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