嵐に遭った帆船が帆柱を切り倒すのは、少しでも船を安定させるためだ。しかし、それは最後の手段であり、運が良ければ船仲間の救助が得られるが、そうでなければ漂流を始めることになる。大黒屋光太夫の神昌丸がそうだったように。
倉敷市笹沖の足高神社は「帆下げの宮」とも呼ばれている。帆という船に関する用語で呼称されるのには理由がある。
下の写真は南を向いており、かつて対岸だった児島が見える。中間の市街地は中世まで海であった。社頭に掲示されている「延喜式内社足高神社(帆下げの宮)由緒書」でば、次のように記されている。
帆下げの宮とは
足高山は四百年前は海中に浮かぶ一孤島であり小竹島、笹島、戸島、藤戸島、吉備の児島、奥津島とも呼ばれ東西航行の要路でありましたが潮流の動きが激しく通る船はすべて帆を下げて山上の神に敬意を表し危難を逸れた為足高神社を帆下げの宮と称してあがめ奉りました。
ウォーキングをしている人が、神社の前で一礼する姿を見かける。都会でも通勤する人が、やはり一礼している。帆を下げるとは、頭を下げるのと同じ意味なのだろう。倉敷文庫2『倉敷の民話・伝説』には、次のように記されている。
帆下げの宮(倉敷)
倉敷地方が海面であった頃、そこは島々にかこまれた静かな、波おだやかな航路となっていました。
しかし干潮のおりには、激流の渦巻く難所もありました。その難所の一つが足高山のふもとにあったので、船人から恐れられていました。足高山は沖津島とも、笹島ともいい、ここに延喜式式内社(備中十八社の一)足高社があります。このお宮は一名帆下げの宮といい、この付近を通る船はかならず帆をおろして、海上の安全を祈願したといいます。
万葉集巻七に次の歌が載っています。
夢にのみ継ぎて見えつつ小竹島の磯越す波のしくしく思ほゆ
浅瀬だったから潮流が速く、危険な箇所もあっただろう。無事を願う船は、霊験あらたかな足高神社に帆を下げたという。聞くところによれば、倉敷市役所本庁舎の塔は足高神社より高くならないよう設計されたそうだ。市役所が腰を低くするくらいだから、船が帆を下げるのは当然と言えよう。しかし、それだけだろうか。
急流でバランスを失わないためには、船の重心を下げる必要がある。帆を下げるだけでも、バランスは保ちやすくなっただろう。帆下げの宮という呼称には、神に敬意を払うよう促すだけでなく、船の安全を確保せよという重要なメッセージが込められていたのだ。
夢でしか会えないあなたのことが、小竹島の磯を越える波のように幾度も思い起こされる。歌番号1236の万葉歌である。歌碑が愛知県知多郡南知多町篠島汐味(しのじましあび)に建てられており、「夢耳継而所見小竹嶋之越礒波之敷布所念」「いめのみにつぎてみえつつしのじまのいそこすなみのしくしくおもほゆ」と刻まれている。小竹島を「しのじま」と読んで、篠島を指すと解釈しているのだ。
足高神社の由緒書にあるように、ここが小竹島と呼ばれていたなら、万葉歌の歌枕だったのかもしれない。この場合、小竹島は「ささじま」と読むのが適当だろう。笹島との別名もあるようだし、地名は笹沖という。小竹島の磯越す波は、足高神社の麓のようすだったのだ。
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