三代将軍・徳川家光は,生まれながらの将軍である。将軍の正室から生まれた子が将軍となったのは家光のみである。当然,江戸城で生まれたであろう。しかし,家光が生まれた部屋が埼玉県にあるという。その事情を探ることにしよう。
川越市小仙波町の「川越大師 喜多院」に「徳川家光誕生の間」がある。
参勤交代に鎖国,江戸時代の表象となる政策は,家光の時代に成立したものだ。家光は1604年生まれなので,2004年は生誕400年の節目に当たっていた。そのことを示す立看板が,当院最古の建造物である山門に掲げられていた。
喜多院は,もともと星野山無量寿寺と号し,南中北の三院あったうちの北院が改称したものである。南院は喜多院に合されたが中院は現存する。中世には中院が隆盛だったらしいが近世にはその勢力は逆転する。その立役者が第27世天海大僧正である。
喜多院は山号を「東叡山」と称していた時期がある。東叡山といえば寛永寺であるが,寛永寺創建以前には,喜多院の山号であった。どちらの寺も天海に深い関わりがある。この天海,たいへん長命で17世紀前半の幕政の所々に顔を出す。行年108歳,121歳,135歳など様々に伝えられるだけに,山門前の銅像も高齢の面貌である。
寛永十五年(1638)一月二十八日の川越大火によって焼失した喜多院は,江戸城紅葉山の書院造の御殿を移築して再興された。この時の建物の内部に「家光誕生の間」があるというわけだ。さすがに小江戸川越,小江戸の冠称は古い町並みを表す美称ではなかったのだ。