血生臭い権力闘争にドロドロの恋愛関係。皇族も貴族も人間だもの。感情むき出しに自己主張して、敵を蹴落としている。政治史でもっとも面白いのは、奈良時代ではないか。大河ドラマにすればよさそうだが、太閤秀吉や西郷どんのようなスーパーヒーローが登場しないから、やはり視聴率はキビしいか。
武雄市橘町大字大日に「道祖王(八世紀の皇太子)御墓」という標柱があり、大日如来の種子(しゅじ)と応永21年(1414)の年号が刻まれた自然石種子板碑がある。
道祖(ふなど)王は、天平勝宝八歳(756、この時期のみ年ではなく歳)に、あの偉大な聖武天皇の遺言で皇太子となった。孝謙天皇からは六親等の遠戚であるが、安定した皇位継承を企図しての配慮だろう。
偉大な先帝に指名されたのだから、将来は約束されたはず…。ところが、ここは権謀術数にたけた強者がうごめく平城京。立太子から1年も経ないうちに、道祖王は突如として断罪される。『続日本紀』巻第二十の天平宝字元年(757)3月29日条には、次のように記されている。
皇太子道祖王、身諒闇に居て、志淫縦に在り。教勅を加ふといへども、かつて改悔なし。是に於て、勅して群臣を召して、以て先帝の遺詔を示す。因て廃不之事を問ふ。右大臣已下同く奏して云ふ。敢て顧命之旨に乖違せず。是の日、皇太子を廃して王を以て第に帰す。
皇太子道祖王は、服喪中でありながら淫らな気持ちを抱き、教え諭しても悔い改めようとしない。このため、孝謙天皇は群臣を招集して聖武天皇の遺言を示し、皇太子の廃位について問うた。藤原豊成ら群臣は「あえて反対いたしません」と答えた。この日、道祖王は皇太子から降格させられた。
次期皇太子に選ばれたのは大炊王である。王は藤原仲麻呂の長男の未亡人を妻とし、仲麻呂の邸で生活していた。大炊王の立太子に際して、孝謙天皇は道祖王を再び断罪した。次に示すのは、『続紀』4月4日条に掲載されている「お言葉」である。
先帝遺詔して道祖王を立て、昇せて皇太子と為す。而して王、諒闇未だ終らず、陵草未だ乾かざるに、私かに侍童に通じて、先帝に恭しきことなし。喪に入るの礼、かつて憂に合はず。機密の事、みな民間に漏たり。しばしば教勅すといへども、なほ悔情なし。好て婦言を用ひ、稍に狼戻多し。忽ちに春宮を出て、夜独り舎に帰る。云く臣人となり拙愚にして、重きを承るに堪へずと。故に朕竊かに計て、此を廃して大炊王を立つ。
聖武天皇の遺言により道祖王を皇太子としたが、王は服喪中にもかかわらず少年と淫らな行いをし、亡き天皇に対する礼をまったく欠いている。機密事項は民間に漏洩し、いくら教え諭しても悪かったと思わない。周囲の女性の言うことばかりに耳を傾け、どんどん心がねじ曲がってきた。すぐに東宮御所を抜け出して、夜ひとりで帰ってくる。しかも「私は人として稚拙にして愚鈍であり、皇太子という重責に堪えることができません」と言っている。そこで熟慮の結果、道祖王に代えて大炊王を皇太子とすることとした。
5年前、近隣の独裁国家では張成沢氏を「国家転覆陰謀行為」があったとして処刑した。道祖王の非違行為についても同じような臭いがするが、どうだろうか。この後、藤原仲麻呂が権力を掌握することを考えれば、仲麻呂の陰謀に思えてならない。
「政治の力で行政がゆがめられている」と訴えた前川喜平氏のように、こうした状況を看過できず、新政府樹立を志す者がいた。聖武天皇の信任が厚く、仲麻呂に失脚させられた橘諸兄(たちばなのもろえ)の子、奈良麻呂である。
ところが、奈良麻呂のクーデター計画は6月28日、密告により露見することとなる。7月2日、孝謙天皇や光明皇太后は争いを鎮めようとしたが、謀反に誘われたと告白する者が現れた。備前出身の上道臣斐太都(かみつみちのおみひだつ)である。斐太都ゆかりの地は、本ブログ記事「15階級特進の栄誉」で紹介している。この日「兵を遣して道祖王を右京の宅に囲ましむ」とあるから、王は逮捕されたのだろう。
7月4日、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、小野東人、黄文(きぶみ)王、安宿(あすかべ)王、塩焼(しおやき)王、そして道祖王等が国家転覆に関わったとされ、厳しい取り調べが行われた。その計画の全貌は、小野東人らの自白によれば次のとおりであった。
将に七月二日の闇頭を以て、兵を発して内相が宅を囲み、殺し劫して即ち大殿を囲み、皇太子を退けむ。次に皇太后宮を傾けて、鈴璽を取らむ。即ち右大臣を召して将に号令せしめむ。然して後に帝を廃し、四王の中を簡びて、立て以て君とせむ。
7月2日夜に挙兵して、仲麻呂の邸を囲み同人を殺害。次いで宮殿を囲み皇太子大炊王を退去させるとともに、皇太后宮を襲撃し駅鈴と御璽を奪取する。右大臣藤原豊成を臨時の首班として指揮をとらせ、新政府が整った後に孝謙天皇を退位させ、黄文王、安宿王、塩焼王、道祖王の四人のうちから選出して天皇とする。
この時代には恥辱的な名を与える罰があり、捕らえられた道祖王は「麻度比(まどひ)」と改名させられた。「惑い」という意味である。事情聴取の結果はいかに? 塩焼王は不問、安宿王は佐渡配流となり、大伴古麻呂、小野東人、黄文王、道祖王は「杖下に死す」とある。
杖刑は律令に定められた刑罰で、当時としては違法性がない。しかしながら死ぬほど叩いているのだから、これは拷問以外の何ものでもない。恥辱を与えた上に拷問を加える。これが聖武天皇が指名した皇太子に対する仕打ちであろうか。
平城京で亡くなった道祖王の墓が、なぜ肥前にあるのか。橘町まちづくり推進協議会が平成23年に設置した説明板に、次のような記述がある。
地元の言い伝えでは、奈良麿は、殺された皇太子道祖王の分霊を持ってこの地に来たとされています。
確かに橘奈良麻呂の乱後の消息は、『続紀』に記されていない。逃げることなどできようはずもないから、処刑されているに違いない。そうであっても逃げおおせてほしいと願ったのは誰か? この地域には橘氏の子孫と称する渋江氏がいた。自らのアイデンティティを道祖王御墓に求めていたのではなかろうか。
先ほどの説明板には、次のような記述もある。
この墓地の下は長崎街道です。多くの人達が通りましたが、乗馬の人は必ず下馬して通ったと言われています。若し、乗馬したまま通ると、目がくらみ落馬して怪我すると、言い伝えられています。
廃されたとはいえ皇太子殿下だった人である。礼を尽くして当然だろう。現代日本も間もなく代替わりを迎える。平和裡に皇位継承ができるのは国家が成熟している証しだ。新天皇即位を祝って、5月1日を祝日とする「10連休法」が今月8日未明に成立した。国民こぞってお祝いしたいものだ。