恐竜は最終段階でもっとも進化を遂げていた。羽毛を獲得することで体温を維持し、抱卵や子育て、極寒の地への進出を可能とした。あの隕石衝突がなかったなら、別の進化を遂げた動物が出現していたかもしれない。
同様に古墳の築造も7世紀に終焉を迎えるが、その最終段階では八角形の墳形が現れ、切石積みの石室が築かれるようになる。人々を魅了してやまない彩色壁画も特徴の一つである。本日は古代因幡に築かれた終末期古墳を紹介しよう。
鳥取市国府町岡益に国指定史跡の「梶山古墳」がある。
古墳の発掘はある意味「破壊」であり、その研究や一般公開のニーズといかに両立させるかは、大きな課題だ。この問題を私たちに突き付けたのが、平成半ばに明らかになった高松塚古墳とキトラ古墳の彩色壁画劣化問題である。
人の手が入れば入るほど劣化していく。保存のために封印すれば見ることができない。壁画を切り取り、空調の整った施設で保管すればよさそうだが、それは破壊にほかならず、古墳としての価値は下がるのでは…。
実に難しい問題だが、この梶山古墳も発掘がなければ、その価値が明らかにはならなかった。どのような特徴があるのか、2つの説明板から抜き書きしよう。
梶山古墳は、切り石の立派な石室をもち、併せて変形八角墳に大規模な方形壇が備わった全国でも珍しい古墳です。築造者は、飛鳥時代にこの地方で文化的、政治的勢力を持ち合わせていた豪族と見られています。
昭和五十三年、中国地方で初めて彩色壁画が発見され、奈良、高松塚古墳に次ぐ第一級の装飾古墳として全国的に脚光を浴びました。彩色壁画は、玄室の奥壁に体長五十三cmの魚の絵とその上の中心に曲線文があり、両側に同心円文と三角文が画かれています。この古墳から須恵器・土師器・棺の金具などが発見されました。これらの出土遺物から七世紀前葉に造られ、九世紀頃まで追葬あるいは、長期にわたる祭祀行為が続けられていたものと推定されています。
出土遺物から7世紀前葉の築造と推定され、大和地方の終末期古墳と同様の特徴を有している。墳丘の周囲は「変形八角墳」が分かるような復元が行われている。
八角墳は斉明天皇直系の人々に多い墳形で、天智・天武の兄弟の天皇陵も八角墳である。では、梶山古墳の被葬者は誰なのか。説明板では「この地方で文化的、政治的勢力を持ち合わせていた豪族」とされている。古代因幡の豪族といえば、因幡国造が考えられるが、中央権力とのつながりがあったことを意味しているのだろうか。
別説として被葬者に考えられるのが、麻績王(おみのおおきみ)という皇族である。麻続王とも書く。出自はよく分からないが、哀愁を帯びた万葉歌で知られている。『万葉集』巻第一(23,24)を鑑賞しよう。
麻続王、伊勢国伊良虞(いらご)島に流されし時に、人哀傷して作れる歌
うちそを 麻続(をみ)の王(おほきみ) 海人(あま)なれや 伊良虞(いらご)が島の 玉藻(たまも)刈ります
麻続王が伊良湖岬に流された時に、人々が悲しんで作った歌
麻続王は皇族なのに、海人になったのだろうか。伊良湖岬で海藻を刈っていらっしゃる。
麻続王これを聞き、感傷して和(こた)ふる歌
うつせみの 命を惜しみ 波に濡れ 伊良虞の島の 玉藻苅り食(は)む
麻続王がこれを聞いて、心を痛めて返した歌
そう、私は波に濡れながら伊良湖岬で海藻を採って食べているのです。自分の命は惜しいですからね。
右、日本紀を案ずるに曰く、「天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯、三品麻続王罪有りて因幡に流さる。一子伊豆島に流され、一子血鹿(ちか)島に流されき。」これに伊勢国伊良虞島に配さると云へるは、若疑(けだし)、後の人、歌辞に縁り誤り記せるか。
この歌に関連することだが、『日本書紀』天武天皇四年(675)四月十八日条に「辛卯、三位麻績王罪有り、因幡に流す。一子をば伊豆島に流し、一子をば血鹿島に流す。」とある。これを伊良湖岬へ配流としたのは、おそらく歌の言葉で誤解して記したからだろうか。
『万葉集』はこの左注で、『日本書紀』の記述を支持している。因幡への配流の可能性が高いということだ。麻続王がその後どうなったのかは何も伝わっていないが、天武朝ゆかりの皇族が因幡の地で亡くなったとすれば、八角墳が築かれても不思議ない。
しかし麻績王(麻続王)は、親子で配流されるような罪人である。八角墳の築造が簡単に認められるとは思えないが、どうだろう。しかも、古墳の築造年代(7世紀前葉)と麻績王の配流の年(7世紀後半)にずれがある。
説明板に「九世紀頃まで追葬あるいは、長期にわたる祭祀行為が続けられていたものと推定」とあるから、被葬者はやはり、朝廷に采女を出し、一定の勢力を維持した因幡国造のようにも思える。終末期古墳の栄光を守ったのは誰なのか。古代因幡の奥は深いようだ。