明治の神仏分離以来、皇室は神道を崇敬し、仏教とは関係がなくなったのかと思えばそうでもないらしい。平成23年3月16日、天皇陛下は法然上人の800遠忌にあたり「法爾大師」という大師号を加諡された。陛下の御心は広大にして深遠であり、今でも仏教の庇護者なのである。
大阪府南河内郡太子町大字春日に「用明天皇河内磯長原陵(こうちのしながのはらのみささぎ)」がある。
用明天皇は第31代の天皇で、在位は585~587年で実質2年にも満たない。これは歴代3位の短さである。それでも、あの有名な聖徳太子の父親ということから、けっこう名前は知られているほうだ。
近松門左衛門は『用明天王職人鑑』という人形浄瑠璃を書いている。廃仏派の山彦王子と崇仏派の花人親王の争いを軸にスペクタクルな展開をしていく。最終的には花人親王の勝利となり天皇に即位する。これが用明天皇である。
史実の上でも、用明天皇は仏教への帰依を表明した初めての天皇なのである。『日本書紀』巻二十一の用明天皇二年(587)の記述を読んでみよう。(小学館『新編日本古典文学全集』による)
二年の夏四月の乙巳の朔にして丙午に、磐余の河上御新嘗す。是の日に、天皇、得病ひたまひて、宮に還入します。群臣侍れり。天皇、群臣に詔して曰はく、「朕(われ)、三宝(さむぼう)に帰(よ)らむと思ふ。卿等(いましたち)議(はか)れ」とのたまふ。群臣、入朝りて議る。
この時、物部守屋と中臣勝海は「どうして我が国の神に背いて他国の神を敬われるのでしょうか。今までこのようなことは聞いたことがございません」と申し上げた。一方、蘇我馬子は「詔に従ってお助けいたしましょう。誰がこれに反する動きをするというのでしょう」と申し上げた。
こうして物部氏VS蘇我氏の最終戦が始まる。勝利したのは崇仏派の蘇我氏で、以後、日本仏教史は大河の如く流れていく。一方で物部守屋は仏敵とされ不当な評価を受けることとなる。ナショナリズムの立場から見れば守屋の主張に理があるはずだ。
民主的な用明天皇が崇仏の意思を表明した後に群臣に意見を求めたばかりに事が大きくなったような気もする。それでも、その意思表明があったからこそ、その後の歴史は動いたのだ。「朕、三宝に帰らむと思ふ」の言葉は、日本仏教の庇護者が出現した瞬間だった。