歴史好きの女性「歴女」が新語・流行語大賞のトップテン入りしたのは平成21年。この年の大賞は「政権交代」で鳩山由紀夫首相が受賞した。「事業仕分け」や「脱官僚」など、新しい政治への期待に満ちた言葉が流行した。が今となっては、あれは何だったんだ、と隔世の感がある。脱官僚で一世を風靡した渡辺喜美氏は、先月30日、「NHKから国民を守る党」の立花孝志代表と新会派「みんなの党」を結成した。「NHK見んなの党」とも呼ばれている。これは何なんでしょうか。
ひと口に「歴女」と言っても、最近は古墳ギャルとか刀剣女子とか細分化傾向にあるようだ。山城をウォーキングして楽しむ山城ガールという女子もいる。白亜の天守を眺めるのもいいが、今に残る削平地や深い堀切に出会うことに魅力を感じるのも、ありだろう。
山城は戦国時代末期にもっとも発達した。長期の籠城戦にも耐えられるよう防御機能が整えられ、山全体が要塞化していく。本日は、そんな大規模でしかも美しい山城にご案内しよう。
津山市小原、上田邑、下田邑の境のあたりに「神楽尾城跡」がある。市指定の史跡である。
市街地からの登城が容易にして眺望は抜群。しかも山城らしい遺構を随所に見ることができる。山城ガールにもおすすめしたい。この地は赤松と山名が争い、山名を尼子が破り、毛利が尼子に勝利して支配を確立した。毛利氏は大蔵尚清を城主として、城を大規模に改修し要塞化した。この城を狙ったのが新興勢力の宇喜多氏で、南方の荒神山城に花房職秀を置いて神楽尾城に対抗させた。
天正七年(1579)三月上旬、大蔵勢は荒神山城に夜襲をかけたが、スパイ活動により察知していた花房勢の迎撃により総崩れとなる。続きは『美作古城記』という記録を読むこととしよう。
今は尚清詮方なく神楽尾差て引返しければ、花房勇んで此勢ひに神楽尾を乗んとさいはい振て下知すれば、素より勇みし兵もの共エイヤ声して追たりける。尚清難なく当城へ引取けるに、兼て戸川の河端に隠れ居し者逃帰たる味方に紛れ込、此処彼処に火を懸てをめきさけんで切散せしかば、城兵驚き防戦ふ所へ敵将花房城外へ押詰、苔口難波真先に進み城塀を打破って乗入たり。味方内外の敵防ぎ難く、或は討れ或は逃去又は敵に降参して、終に落城にぞ及びける。
こうなっては大蔵尚清もどうしようもなく、神楽尾城に向かって引き返した。これを見た花房職秀は士気を高め、この勢いで神楽尾城を乗っ取ろうぞ、と采配を振るって命令すると、やる気満々の兵が「えいやあ」と声を出して追いかけた。尚清は無事に城へ退くことができたものの、あらかじめ戸川の河端に隠れてた花房勢が、神楽尾城兵に紛れ込んで城内に入り、あちこちに火をかけ叫びながら切りかかってきた。城兵は驚きながらも防戦していたところ、敵将花房職秀が押し寄せ、苔口利長と難波信正の一隊が塀を破って乗り込んだ。神楽尾城兵は防戦のしようがなく、討たれたり逃げたり降参したりして、ついに落城したのである。
大規模な縄張のわりには、あっけない落城に思える。さすが何をしでかすか分からない宇喜多の攻め、あざやかに城を奪い取ったのであった。このあと天正十年(1582)の高松城の戦いで、美作の宇喜多支配が確定し、戦乱の時代は終わる。防御施設の整った大規模な山城は不要になった。
慶長八年(1603)に津山に美作入りした森忠政は、院庄を拠点として築城地を探した。候補となったのは天王山(津山市日上)と鶴山(今の津山城)であり、神楽尾城は360度の眺望を誇るにもかかわらず一顧だにされなかった。時代は河川や街道の交通インフラが整った城下町を求めており、事実、城下町津山の発展を吉井川の舟運なしに語ることはできない。神楽尾城の誇る眺望も、経済成長には役立たなかったようだ。