歴史上、気の毒な人は数々いるが、豊臣秀次はとりわけ理不尽な目にあったように思う。昨年の大河『軍師官兵衛』では中尾明慶さんが演じていたが、見事な気の毒ぶりだった。
単に気の毒な人と言い放つだけでは本当に気の毒なので、秀次を顕彰する場所を訪れ、レポートを書いて追善供養としたい。見よ、威風堂々とした豊臣秀次卿の英姿を。
近江八幡市の八幡公園に「従一位左大臣関白豊臣秀次卿」の像がある。台座にそのように書いてある。
衣冠束帯姿の見上げるほど高い像である。昭和54年に豊臣秀次卿顕彰会によって建てられた。市民には「近江八幡の開町の祖」として慕われている。
公園の入口に「大典記念 八幡公園」と刻まれた石碑がある。「正三位子爵豊臣俊哲書」とあるので、旧日出(ひじ)藩主家の木下俊哲(としあき)の揮毫だ。豊臣一族の絆が感じられる。裏には「昭和五年四月」とも刻まれている。昭和天皇の御大典を記念したものだと分かる。
豊臣秀次は永禄十一年(1568)に生まれた。父は三好吉房であるが、素性はよく分からない。三好の氏は、子の秀次が三好康長(三好長慶の叔父)の養子となったことから名乗ったものである。吉房は秀次の死後も長生きし慶長十七年(1612)に没した。どうやら凡庸な人物だったようだ。
秀次の母は日秀尼(にっしゅうに)という。この母が豊臣秀吉の実姉だったことで、秀次の人生が左右されることとなる。もちろん、左右したのは叔父の秀吉であった。
子に恵まれない秀吉の養子になったのは、天正9年(1581)とも天正19年(1591)とも言われる。銅像近くの説明板は天正9年説である。だが小和田哲男『豊臣秀次』(PHP新書)は、天正19年(1591)の秀吉の実子鶴松の死去により、秀次が養子に迎えられたとしている。
秀次は名実ともに秀吉の後継者として関白となり聚楽第に住んだ。何事もなければ豊臣政権は長く続いて、別の歴史が展開していたかもしれない。なにしろ秀次は子だくさんだったのだから。
気の毒な人生が始まったのは、秀吉と淀殿との間に秀頼が生まれた文禄二年(1593)からである。世継ぎが生まれれば養子は不要と言うが如く、秀吉と武将たちにあからさまに態度を変えられ、秀次は追い詰められていく。
そして文禄四年(1595)、謀反の疑いにより高野山に追放の後、命により切腹して果てた。さらに妻子はことごとく処刑され、聚楽第も破却された。その後、秀次には「殺生関白」という不名誉なイメージが形成されることとなる。
ただし、國學院大學の矢部健太郎准教授は、秀次は切腹を命じられたのではなく、身の潔白を証明するために自らの決断で切腹した、とする新説を発表している。(『國學院雑誌114巻』平成25年)
さて、悲運の関白秀次と近江八幡市とはどのような関わりがあるのだろうか。近江八幡の市街地は、天正13年(1585)の八幡山築城に伴う城下町の建設に始まる。秀次は秀吉の紀州征伐における働きにより、近江に43万石を与えられ、八幡山に居城を築いた。安土城とその城下町を継承するものであった。秀次当時18歳である。
八幡山の山上に天守閣等が築かれ、居館は秀次像の立つ山麓につくられた。秀次の在城は天正18年(1590)の小田原征伐の論功行賞により尾張清洲へ移封されるまでの間だった。
銅像近くの説明板では、近江八幡における秀次の事績が3点にまとめられている。読んでみると、近世大名のお手本のような施策だと分かる。
「八幡山下町掟書」楽市楽座を定め、有力な商人や職人を呼び寄せ、自由商業都市とした
「町割」碁盤目状の通りをつくり、職種別に住む地域を分けた
また、下街道(のちの朝鮮人街道)をこの町割に引き込み、陸上交通の要衝とした
「八幡堀」城の堀としてだけでなく、琵琶湖につながる運河として湖上交通の要衝とした
その後、八幡城は秀次切腹に伴って廃城となったが、その天守閣は大津城そして彦根城へと受け継がれているという見方もある。
これは近江八幡の観光名所である八幡堀(はちまんぼり)だ。時代劇のロケにも使用されるほど風情がある。秀次の城下町建設に伴って開削されて物流の拠点となり、「三方よし」で知られる信用第一の近江商人を生み出していく。
八幡堀は昭和40年代に汚染が進み、一時期は埋め立ての計画が立てられたが、市民の努力によって今日の姿となった。景観保全のモデルケースとしての意義もある。
秀次と近江八幡との関わりは5年という短い期間であった。しかも秀吉に近侍することが多く、必ずしも近江八幡で領国経営をしていたわけではない。
城下町近江八幡の建設は、むしろ筆頭家老の田中吉政の功績である。三河岡崎、筑後柳河でもその手腕を発揮している。近江八幡市に柳川市、今ではどちらも水郷のまちとして人気がある。
それでも、近江八幡の人々が「豊臣秀次卿」と顕彰するのは、売る前のお世辞より売った後の奉仕を大切にする近江商人の気風が生きているからだ。気の毒な最期を迎えた領主さまを自分たちが顕彰せずしてどこがするというのか、そんな思いがあるにちがいない。