日和見といえばいい加減なイメージがあるが,戦国の世を生き抜くためには,そのくらいの柔軟性はあってよい。節を曲げずに大義に殉じるのは美しい生き方かも知れぬが,滅んでしまえばお終いだ。
八幡市八幡南山の八幡洞ヶ峠交差点に「筒井順慶陣所跡」の石碑が建てられている。
下部に「右西二子塚三丁,左圓福寺三丁」,裏に「昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之」と刻まれている。三宅安兵衛とは京都で帯織物を扱っていた商人である。その遺志とは,「此の金を予が死後,京都の為め公利公益の事に使用せよ」(三宅清治郎『木の下蔭』)というものであった。息子の清治郎は,史跡を訪ねる人々のために案内の石碑を建てることにした。こうして今も京都府下各地に残る三宅安兵衛遺志碑が建碑された。
本能寺の変で信長を倒した明智光秀は,旧友の筒井順慶を味方に付けようとする。一方で信長の敵を討とうとする羽柴秀吉も順慶を取り込もうとする。去就に迷った順慶は,見晴らしのよい洞ヶ峠で様子見していた。こうして洞ヶ峠は日和見の代名詞となった。
しかし,実際に順慶が洞ヶ峠に陣所を置いた事実はない。居城の大和郡山城で中立的な態度をとっていた。そして,光秀を倒した秀吉から大和を安堵され,次代の定次も伊賀上野に移封された後,関ヶ原で東軍につき近世大名となる。後世の人に誤解されようが,御家が存続できればよいのだ。
だが,その定次も徳川家康に豊臣氏との関係について疑義を抱かれ,大坂の陣を前に改易されてしまう。日和見で生き残る場合もあれば,日和見で潰されることもある。人の世に勝利の法則などないことを思い知らされる。