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天橋立はよくできた観光地で、「眺めよし」、「味よし」、「御利益よし」の三方よしに加え「レジャーよし」と、訪れる人の期待を裏切ることはない。私に言わせれば「史跡よし」でもあって、ここのところ橋立の記事ばかり書いている。
宮津市の「天橋立」は国の特別名勝である。名勝の中でも特別ということは、我が国が誇りとする風光明媚な場所なのだ。
確かに不思議な地形だ。海を一直線の陸地が割いている。これをヘブライ人が見たら、モーセの海割りの奇跡と勘違いするだろう。
天橋立を歩けば、思った以上にしっかりした大地であることに驚く。まっすぐな道に松林、左右は青い海に白い砂。白砂青松は日本の原風景である。いったいどのようにしてできたのだろうか。
日本海から宮津湾に流入する潮流と、野田川が阿蘇海に作り出す流れによって形成された。とは言うものの、詳しいことは分からないようだ。とにかく我が国を代表する砂嘴(さし)である。ほとんど対岸に達しているので、砂州(さす)と呼んで差し支えない。
私は自然地理よりも人文地理が好きなので、天橋立の形成を古い文献で探ることとする。読むのは「丹後国風土記逸文」である。角川文庫『風土記』より引用
〔丹後の国の風土記にいはく〕与謝(よさ)の郡。郡家(ぐうけ)の東北の隅の方に速石(はやし)の里あり。この里の海に長く大きなる前(さき)あり。長さは二千二百二十九丈、広さは或所は九丈以下、或所は十丈以上、二十丈以下なり。先を天(あま)の椅立(はしだて)と名づけ、後(しりへ)を久志(くし)の浜と名づく。然(しか)いへるは、国生みましし大神、伊射奈芸(いざなぎ)の命、天に通行(かよ)はさむとして、椅(はし)を作り立てたまひき。かれ、天の椅立といひき。神の御寝(みね)ませる間に仆(たふ)れ伏しき。すなわちくしびますことを怪しみたまひき。かれ、久志備(くしび)の浜といふ。こを中間(なかつよ)に久志(くし)といへり。これより東の海を与謝の海といひ、西の海を阿蘇の海といふ。この二面(ふたおもて)の海に、雑(くさぐさ)の魚貝等(ども)住めり。ただ、蛤(うむぎ)は乏少(すくな)し。
与謝郡。郡役所の北東部に拝師(はやし)郷がある。この郷の海に長く大きな岬がある。長さは2229丈、広さはある所では9丈以下、他の場所では10丈以上20丈以下である。先を天橋立と名付け、付け根を久志(くし)の浜と呼んだ。その由来はこうだ。国をお生みになったイザナギが天に通おうとして、「椅(はしご)」をお造りになって立てられた。それゆえ「天(あま)の椅立(はしだて)」という。ところがそれは、イザナギがお眠りになっている間に倒れてしまったのである。そこで、ふしぎなこと(くしび)もあるもんだなとお思いになった。だから久志備(くしび)の浜といったが、そのうちに久志と呼ぶようになった。ここから東の海を与謝の海といい、西の海を阿蘇の海という。この二つの海に様々な魚や貝がいる。ただし、ハマグリは少ない。
おいおい、寝とったんかい。でも、そのまま登っていて途中で倒れたら大事故だから、就寝中に倒れたのは不幸中の幸いだった。というより、倒れたおかげで今の私たちが天橋立を楽しめるのだから、むしろありがたいことだ。
ところが、この地名説話にクレームをつけた男がいた。民俗学の大家、柳田國男である。驚くことに、「天橋立」はあの砂州ではなく、なんと山だというのだ。『地名の研究』「地名考説(新潟及び横須賀)」で、次のように指摘している。
天橋立と云ふ語は、小式部内侍を始め多くの人が歌を詠んだ外に、釈日本紀に引用した丹後風土記の文にも見えて居るが、果して今の地を指した地名か否かは疑がある。それはハシダテと云へば梯(はし)を立てたやうな嶮しき岩山を云ふのが常のことで、其梯が倒れて後に之を橋立と云ふのは不自然なるのみならず、風土記に大石前(おほいそざき)とあるのが今と合はぬ。此は寧ろ湾の外側の岩山のことであったのを、名称と口碑とが何時か湾内の砂嘴に移って来たものと見られる。現在の橋立の名前としては、今では山上の寺となって居る所の成相の方が当って居る。併し随分有名な語になったものだ。
「ハシダテ」とは、傘松公園や成相寺(なりあいじ)のある成相山(標高569m)のことであり、それがいつの間にか、砂州の名前にすり替わったと主張している。
丹後国風土記に「大石前(おほいそざき)」とあるというので、上記のように読み下す前の白文を確かめてみた。「この里の海に長く大きなる前あり。長さは二千二百…」の部分はこうだ。
此里之海有長大石前長二千二百…
これに「此里之海、有長大石、前長二千二百…」と読点を打つと、「この里の海に、長く大きなる石あり。前の長さ二千二百…」となり、柳田翁の言われるのが正しいように思われる。
しかし通説では、「此里之海、有長大石前、長二千二百…」と区切り、「石前」を「磯崎」と同義と見なし、これを「岬」と解釈しているわけだ。
どうだろうか。いかに柳田翁の解釈とはいえ、ここは通説のほうに軍配を上げたい。海を割るかのような珍しい地形に名前が付けられないはずがなかろう。私の解釈は次のとおりだ。
傘松公園から「股のぞき」をすると、このような眺めになる。古代の人もきっと「股のぞき」をしたに違いない。一直線の陸地は、天に架かるかのように見えるではないか。そこから、天に通う梯子(はしご)を想像したのだろう。
イザナギは神様とはいえ、見てはいけないものを見てしまい、びっくりして逃げ出すエピソードの持ち主だから、寝ている間に梯子が倒れるというアクシデントもありだろう。
丹後国風土記逸文の出典は『釈日本紀』巻五「天浮橋(あめのうきはし)」の項である。イザナギとイザナミが国産みの際に立ったという天空の橋だ。まさに、股のぞきで見える天橋立のイメージである。
もしかすると、国産みを終えたイザナギとイザナミの両神は、不要になった天浮橋をそっと地上に降ろし、私たちに下賜してくださったのかもしれない。